Castle

イギリス編

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ウインザー城 Winsor Castle

ロンドンの西約35キロのテムズ河畔にあるイギリス王室の城。
ウィリアム征服王が物資輸送の大動脈・テムズ川を押さえるためにモット・ベイリー形式(築山と、堀と土塁で囲んだ外郭から成る)の城を築いたのが始まり。1170年代にヘンリー2世はモットの上にラウンド・タワーと呼ばれる堅固な石造りの塔を建て、外郭も石造りに改めた。14世紀にはエドワード3世がさらにいくつもの角塔を付け加えて防備を固めた。しかし、16世紀以降になると戦いに備える必要性が薄れ、おいおいに改築されて居住性の良さを旨とした豪華な宮殿に変わっていった。
様々の時代の建造部分が形を成して残っているため、城郭の変遷の歴史がよく分かる。
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エディンバラ城 Edinburgh Castle

三方を険しい崖に囲まれた岩山で天然の要害であり、古くから砦として使われてきた。ノーサンブリアの王エドウィンが617年に砦を築き、これが「エドウィンのバラ」と呼ばれてエディンバラの呼称ができたという(バラとは防備を施した居住地のこと)。
11世紀からスコットランド王が城として利用し始め、マルカム3世の王妃マーガレットが城内に建てた礼拝堂は「聖マーガレット礼拝堂」と呼ばれて、現存する最古の建物となっている。1286年のアレキザンダー2世の死に始まるイングランドとの争いの中でたびたびイングランドの手に落ちることになり、1313年エドワード2世からこの城を奪回したロバート・ブルースは、また敵方に利用されることを怖れて「聖マーガレット礼拝堂」以外の建物をすべて取り壊してしまった。
1336年、エドワード3世がエディンバラを占領して再び城を築いたが、再びスコットランドに奪い返され、16世紀になるまでスコットランド王家の王城として使用された。
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カーナーヴォン城 Caernarfon Castle

もともとローマ時代の城塞であったが、1282年にウェールズのルウェリンを破ったイングランド王エドワード1世によって、大規模な城壁を持つ石造りの城に造り替えられた。この城で生まれた息子にエドワード1世はプリンス・オブ・ウェールズの称号を与え、以後これが王位継承者の第一の称号となった。1284年にはウェールズ法によって城郭内にはイングランド人しか出入りできないと定められ、この差別は1485年のヘンリー7世のときまで続いた。町の城壁や、城の石造の外郭はよく残っているが、内部はほとんど崩れている。
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カリクファーガス城 Carrickfergus Castle

北アイルランド・ベルファスト入江の海岸に建つノルマン人の城。アイルランドで最も古い石造りの城と見られる。カリクファーガスの地名は「ファーガスの岩」という意味で、難破のため溺死した 6世紀の王にちなむ。もともとは完全に海に囲まれていた。
1178年頃、アルスターの大半を征服したノルマン貴族ジョン・ド・クーシーが防衛のために建築を 開始。1210年にはジョン王のものとなり、アルスター伯領は後に回復されるが、以後7世紀以上 に渡ってイングランド政府の行政的中核となる。
1797年には監獄となり、第一次大戦時には駐屯地や軍需品庫、第二次大戦時には防空壕としても 使われた。

第一次高額城シリーズ(1988.10.18発行) 城の撮影者はアンドルー王子

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ホワイト・タワー White Tower

ロンドン塔の中核をなす城。白っぽい石灰岩で築いたあと、漆喰を塗って真っ白に仕上げてあったのでこの名がある。カエサルのブリアタニア遠征の際、駐屯軍のために築かれた城壁と塔が城の始まり。ウィリアム征服王はロンドンの3箇所に城を造ったが、イングランド全土の制圧が一段落した1078年、当時の市街地のすぐ東側にあった城を石造りに改築してこの城を建てた。サクソン族には城を造るという習慣がなかったので、ロンドン市民はこれを見てたいへん驚いたという。その後の王たちはこのタワーのまわりに次々とタワーを築いてタワーとタワーのあいだを城壁で取り結び、城全体の名称はザ・タワー・オブ・ロンドンと呼ばれている。16世紀まで国王の住居として使われていたが、13世紀末には高位の政治犯を収容する監獄としても使用されはじめ、多くの逸話が残されている。

1978.3.1発行

【歴史的建造物】

参考文献:『イギリスの古都と街道』 紅山雪夫・著 トラベルジャーナル
      :『ヨーロッパものしり紀行《城と中世都市》編』 紅山雪夫・著 新潮文庫
      :『新版・ヨーロッパの城』 井上宗和・著 現代教養文庫
      :『ヨーロッパの古城と宮殿』 藤井信行・著 新人物往来社
参考サイト:Castle of the Week

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