Schloss
ドイツ編 1
城はドイツ語ではブルクと呼ばれる。ブルクの意味は「囲んで守る場所」であり、市民の語源である
ビュルガーはブルクの住人を意味する。すでにローマ時代にインド・ゲルマン語に由来するこの言葉を用いてブルグスという言葉が使われていた。これは監視塔を意味していた。しかしラテン語の公文献ではカストルムという言葉が多く用いられ、15世紀以前ではブルクという言葉はあまり使われて
いなかった。今ではブルクというと防衛施設とはっきり解る建築様式を指す言葉となっている。
ブルクと並んで城郭シュロスという言葉も用いられている。シュロスという場合は封建的君主の居城を意味し、防衛施設は不十分な形式だけになっている。しかし16世紀まではこの区別ははっきりせず、このほかにもさまざまな呼び名があった。
(『ドイツ〜チェコ古城街道』 阿部謹也/若月伸一/沖島博美・著 新潮社より)
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■ シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州 Schleswig-Holstein
グリュックスブルク城 Schloss Glücksburg
デンマーク国境に近いドイツ最北の港町・フレンスブルクから18キロのところにグリュックスブルクの湖水に面して建つ。三方を水に囲まれているところからWasserschloss(水城)とも呼ばれる。
もともと小城塞があったが、1587年、当時の領主ハンス公によって居館に改修された。北欧ルネッサンス風の建物は、白い本館と白い六角の塔4つに囲まれ、赤い屋根、青い屋根をもって端正なたたずまいを見せている。
現在は建物の内部は博物館となって公開され、二階の赤い部屋と呼ばれる広間は壮麗で、室内には17世紀のフランドル製家具も置かれている。
公式サイト
1977.4.14発行
アーレンスブルク城 Schloss Ahrensburg
ハンブルク郊外に建つルネッサンス様式の城。1567年にデンマーク王が彼の部将Daniel Rantzauにこの地を与え、1595年に相続人である弟のPeter Rantzauが城を建設した。
公式サイト
1982.7.15発行
■ メクレンブルク・フォアポンメルン州 Mecklenburg-Vorpommern
シュヴェリン城 Schloss Schwerin
シュヴェーリン湖上の島にある城。10世紀にスラブの辺境の城としての記録がある。1845〜1857年にかけてメクレンブルグ・シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世の命により、建築家デムラー、シュテューラー、ヴィレブラントらによって、現在の姿に改築された。ネオ・ルネサンス様式の豪華な風格のある建物は、地元の伝統とロワール川沿いのフランスの城に触発されたものである。現在は州議会、博物館が置かれている。
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1977.4.14発行
■ ニーダーザクセン州 Niedersachsen
ヴォルフスブルク城 Schloss Wolfsburg
1574年からハンス・フォン・バルテンスレーベンによって、中世の城からウェーザー・ルネッサンス様式に改築された。ハンスは建物の荒廃していた部分を取り壊して宮殿の玄関口のある現在の北翼を建て、彼の死後も後継者によって建築が続けられ、1620年頃には、中庭を四翼の建物が囲む現在の形の宮殿が完成した。1742年からシューレンブルク伯の居城となる。
現在はギャラリー、博物館、芸術協会、レストランなどが内部にある。
1977.4.14発行
ヘレンハオゼン城 Schloss Herrenhausen
所在地:ハノーファー
1696年から1714年にかけて選帝侯妃ゾフィー・フォン・ハノーファーによって今日の姿に形づくられたバロック式の美しい王宮庭園がある。
1982.6.16発行
■ ノルトライン・ヴェストファーレン州 Nordrhein-Westfalen
ライト城 Schloss Rheydt
10世紀の終わりには史料に名が見える。
1307−1794はユリッヒ公が所有、1815年にプロイセンの所有になった。
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1979.11.14発行
■ テューリンゲン州 Thüringen
ヴァルトブルク城 Wartburg
アイゼナハの町を望む山の上にある。1067年に伯ルードヴィヒ・デア・シュプリンガーによって築城されたと伝えられる。13世紀のテューリンゲン方伯ヘルマン1世の時代には、多くの詩人たちがこの城の広間に集まって歌合戦を行い、のちにワーグナーが「タンホイザーとヴァルトブルク歌合戦」のオペラの題材としている。1221年に方伯ルートヴィヒに嫁いだ聖エリーザベトは1227年の夫の死までこの城で暮らした。中世末期には要塞として残るのみとなった。1521年から1年間ザクセン選帝侯フリードリヒ3世にこの城に匿われたルターは、ここで新約聖書をドイツ語に翻訳している。19世紀には大規模な修復が行われた。1999年に世界遺産に認定されている。
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1980.2.14発行
■ ラインラント・プファルツ州 Rheinland-Pfalz
エルツ城 Burg Eltz
ライン川中ほどの町コブレンツからモーゼル川をさかのぼること約30キロ、モーゼルの左岸をやや山中に入ったところにある。
12世紀にコンラート3世の命でトリアー大司教の家臣・エリヤスが築城した。城ができあがるとエリアスはそのままこの城の警備のために居住し、のちにエルツ家を名乗った。1356年、カール4世によってトリアー大司教に与えられたが、エルツ家は城主として在城し、16世紀までに修復・増築を加えた。城内の多くの部屋に中世風のたたずまいが残っている。
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1977.2.16発行
マルクスブルク城 Marksburg
ライン河畔の町ブラウバッハをのぞむ山上に建つ。ライン川に沿った城の中でももっとも美しく、ライン第一の名城といわれる。
古くは7世紀頃にこの地に城があったとされているが、現在残る一番古い部分は12世紀のもの。1283年からカッツェネルンボーゲン伯の所有となり、城の大部分はこの時代に造られた。マルクスブルクの名は、城の礼拝堂がザンクト・マルクスと名付けられたことによる。
建物は大修理はされているが、中世の姿をよく残している。城内には騎士の間、貴婦人の間、広間、教会などがあり、銃や拷問道具のコレクションもある。
望楼の高さは150mあり、ライン河の眺望がよい。
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1977.1.13発行
■ バーデン・ヴュルテンベルク州 Baden-Württemberg
リヒテンシュタイン城 Schloss Lichtenstein
12世紀頃には建物があり、1150〜1200年にかけて、ゲプハルト・フォン・リヒテンシュタインによって城壁や櫓などが建てられた。1311年に攻撃を受けて破壊され、1315年に再建さたものの、1377年には再び破壊される。1802年にヴュルテンベルク公フリードリヒ2世の領地となり、翌年廃城は撤去されて狩猟の館が建てられた。1837年、弟の子であるヴィルヘルム・フォン・ウラッハがこの城を相続。19世紀ドイツロマン派の作家ヴィルヘルム・ハウフが著した騎士物語『リヒテンシュタイン』に感銘を受けた彼は、狩猟の館を解体し、1840〜1842年にかけて、建築家カール・アレクサンダー・ハイデロッフの設計によりネオゴシック様式で現在の城を建設、塔や居室、跳ね橋などを物語の記述に即して再現した。ウラッハ公に代々相続され、現在は一般に公開されている。
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1982.6.16発行
■ バイエルン州 Bayern
メスペルブリュン城 Wasserschloss Mespelbrunn
アシャッフェンブルク郊外にある。1412年にマインツ大司教ヨハンから騎士ハマン・エヒターにこの地が与えられ、防衛施設を持たない館が建てられた。1427年、彼の子は館を城壁と塔を持ち、湖を堀とした要塞に改築した。15世紀の建物は、ベルクフリート塔のみが残っている。今日の外観は、1551〜1569年にかけて、ペーター・エヒターと妻のゲルトルートによってルネサンス様式で改築されたもの。現在でも子孫であるインゲルハイム=エヒター家がこの城を所有していている。
まわりを森に囲まれ、城の全面には池があるというメルヘン調の城で、「スペッサール森の真珠」と呼ばれる。
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1977.5.17発行
ノイシュヴァンシュタイン城 Schloss Neuschwanstein
ご存じディズニーランドのシンデレラ城のモデルになった「白鳥城」。
国王の築城趣味のおかげで破産寸前まで追い込まれたバイエルン王国ですが、今は年間50万人からの観光客を集めるドル箱観光名所。
もっとも、ご本人は観光地にされるのを嫌がって、自分の死後は壊してくれと言っていたという話も聞いたことがあります(笑)。
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1977.5.17発行
バイエルン王ルートヴィヒ2世 1845−1886
ドイツ帝国成立の際、プロイセン王に、是非ドイツ皇帝を引き受けてくれ、というお手紙を書かされたのがこの方。
ハプスブルク家より古くからの由緒があるヴィッテルスバッハ家の人間としては、ブランデンブルク辺境伯の子孫なんかが皇帝になるのが面白かろうはずもなく、結局戴冠式の行われたヴェルサイユには弟を代わりに行かせてるんですが、ビスマルク、「築城資金」(笑)を払うのと引き替えに承知させた、てな話があります。
ジャン・デ・カールの『狂王ルートヴィヒ』を読むと、信憑性の薄い話ではあるようですが。
1986.5.5発行
■ ベルリン市 Berlin
シャルロッテンブルク城 Schloss Charlottenburg
1695年、初代プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が王妃ゾフィー・シャルロッテのために夏の離宮として建てた華麗な宮殿。3回に分けて建てられ、1790年に現在のような形になった。シャルロッテはこの宮殿を好んで園遊会などを開き、彼女の死後、王はそれまでリェーツェンブルクと呼ばれていたこの宮殿を、彼女の名にちなんで改称した。
第二次大戦で荒廃してしまったが、戦後復元され、現在では博物館、庭園が公開されている。
1982.7.15発行
ベルビュー城 Schloss Bellevue
ティアガルテンの中にある宮殿。1786年にフリードリヒ大王の末弟アウグスト・フェルディナンドの夏の離宮としてボウマンの設計により建てられた。1843年にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の所有となり、以降ホーレンツォレルン家の居城として利用され、1870年9月の普仏戦争休戦協定調印の舞台ともなった。1935年からは民俗学博物館、1938年からはナチス政府の迎賓館として利用された。
1945年のベルリン爆撃で激しい損傷を受けたが、1950年代に改装され、1957年から大統領の第二官邸となり、さらにドイツ統一後の1994年から第一官邸となっている。
1979.2.14発行
参考文献:『新版・ヨーロッパの城』 井上宗和・著 現代教養文庫
:『ドイツの古都と古城』 魚住昌良・著 山川出版社
:『王の城と王妃の宮殿物語』 井上宗和・著 グラフィック社
参考サイト:
日耳曼な所
>>Stamp Album