China









魚鳥文細頸瓶

宝鶏の北首嶺遺跡出土。仰韶全盛期(新石器時代)の彩陶。鳥が魚(長いので龍と見る説もある)の尾をついばみ、魚が身をひるがえして反撃しようとする文様。北京の中国歴史博物館蔵。

マレーシア発行
写真で比べたので間違いないと思いますが、またなぜマレーシア発行?



《河娒渡遺跡》


稲作農業 木造建築
木の櫂 鳥と太陽の模様の器

浙江省余姚市に所在する新石器時代中期(紀元前5000-3300年)の遺跡。1973年6月に発見された。1973-74年の調査で大量の稲籾や稲の茎・葉が発見され、紀元前5000年頃にはすでに安定的な稲作農耕が行われていたことが明らかとなった遺跡である。また、住居構造は高床式住居であり、沼沢地近くでの集落構造が他地域のものと異なることが注目された。低湿地遺跡であることから、栽培イネ以外にも多くの植物遺体や動物骨が出土し、当時の古環境を復元するのに役立った。出土遺物では骨製工具の比重が高く、特に早期では石器、木器などの総数よりも多く出土している。河娒渡文化を代表する農具である骨耜(掘削用の道具、左上の図案)は鹿や水牛の肩胛骨を利用したもので、遺跡からは100点以上が出土している。さらに漆器や玦状耳飾りの出土は、日本の縄文文化との対比も示唆された。

1996.5.12 中華人民共和国発行










三星堆黄金マスク

打ち延ばした黄金の薄いシートが漆を混ぜた接着剤で貼られた青銅人頭像。
1986年7月、四川省での煉瓦工場の採土工事中に2つの土坑の中から発見された数千点の遺物の一つ。 発見された青銅器は、一部は殷文化との交渉をうかがわせるものの、異形の人頭像を始めほとんどが 強烈な独自性を持っており、この地方に独自の祭祀を持つ文化が栄えていたことが明らかとなった。
遺物はほぼすべてが激しく破壊された上に焼かれており、当初は祭祀活動の結果と考えられていたが、 現在では国が滅びたときに破壊され埋められたものと考えられている。

2001.10.12 中華人民共和国発行










甲骨文書 商代甲骨

牛の肩胛骨や亀甲を火で灼き、あらわれたひび割れによってうらなった記録が甲骨片に彫りつけら れたもの。
粉末がマラリアに効く「龍骨」として売られていたが、清朝末期、国子監祭酒であった王懿栄と、その幕客であった劉鉄雲が文字の書かれていることを発見し、研究が始まった。出土場所は商人の秘密とされていたが、安陽であることがつきとめられ、1928年から中央研究院によって安陽県小屯村で発掘が始まり、この地が商の都であることが明らかになった。1936年6月12日には、直径2m、深さ1mの円形坑のなかから17,700余片の亀甲が出土している。
卜辞によって商王朝は王が神権をもった祭政一致の政権であることがわかり、また『史記』の王統譜が実に正確であることが証明された。

1996.9.2 中華人民共和国発行







曾侯乙編鐘 曾侯乙匜
1987.12.10 中華人民共和国発行 2003.12.13 中華人民共和国発行

湖北省随県擂墩一号墓より出土。1978年5月に発掘され、副葬された青銅器に鋳込まれていた「曾侯乙」が被葬者の名であると推定された。戦国楚の勢力下にあった小諸侯と考えられる。出土品の中に紀年銘があり、それが紀元前433年にあたることがはっきりしている。墓壙の深さは約13mであり、その底に棺・副葬品を納める高さ3m前後の槨が四室、木材により造られている。槨の中からは、墓主の遺体一体と殉葬者の遺体21体が、それぞれ棺に入った状態で発見された。また青銅器・漆器・木器・玉器のほか有機質の製品をも含む膨大な量の副葬品が良好な保存状態で未盗掘のまま発見され、総点数は1万点以上に達した。出土品は武昌の湖北博物館に収められている。
「編鐘」は中でも最も有名な出土品として知られる。この釣り鐘型の楽器のセットはさまざまに音階の異なる64点の鐘で構成されており、最小のもので重さ20㎏、最大のものは高さ約1.5m、重量は約200㎏に達する。










中山王[サク]鉄足大銅鼎

河北省平山県にある戦国時代中山国(北方民族・白狄系鮮虞族が建国)最盛期の王・サク(興の下に昔、のような字)の墓より出土。現地では1950年代後半から戦国期の遺物が出土しており、70年代に入って王墓クラスの墓葬であることが確認され、1974年11月から78年7月にかけて発掘調査が行われた。墓は前4世紀末のもので、墳丘の現存する高さは15mあり、中字形の墓室をもつ。内部は盗掘を受けていたが、手つかずの宝庫が残されており、青銅板に金象嵌で図と文字を表した「兆域図」(墓の設計図)、ほかの王陵諸墓からは1点も出土していない三鋒戟形器、最も美しいといわれる戦国文字の刻まれた青銅礼器(儀式用の器)、精巧につくられた金銀象嵌龍鳳形方案(四角い机)や燭台、玉器など数多くの遺物が出土している。銅器の銘文により史書に見えない中山王の系図が明らかになった。
鉄足大銅鼎は出土した9つの鼎のうちで最大のもので、高さ51㎝、口径42㎝、最大径65.8㎝、重さ60㎏。本体が銅で脚の部分だけが鉄でつくられており、実際に火にかけた形跡が認められ、中には肉を煮たものが結晶状になって残っていた。77行、499字の銘文が刻みつけられていて、宰相賙をたたえる内容となっている。

2003.12.13 中華人民共和国発行










馬王堆漢墓帛画

湖南省長沙市の郊外の馬王堆漢墓より出土。「馬王堆」という呼称は、この墓が現地で「五代十国時代の楚の王・馬殷の墓」と誤って伝えられていたことに由来するが、1972年から74年にかけて発掘された結果、前漢初期の長沙国の丞相、軑侯利蒼および彼の家族の墓で、2号墓に軑侯利蒼、1号墓に利蒼の妻、3号墓に利蒼の息子が埋葬されていたことが判明した。
三基の墓の中で最も大規模かつ保存状態が良好だったのは1号墓で、地下への掘り込みが深かったために槨室内の気温は一定に保たれ、槨室周囲に分厚く積まれた木炭・石灰のため常に無酸素・無菌の状態が維持されていた。このため被葬者の女性の遺骸は保存状態が非常に良く、解剖調査の結果、生前に食べた食物がそのまま胃から発見された。また、有機質の副葬品も腐敗せずに残されており、絹に描かれた地図や人物像(帛書)、衣服などが多数発見された。
帛画は長さ2.05m、幅47.7㎝で、棺の上にかけられていた。両袖が広がっている部分が天上の世界、それより下が地上の世界になっていると思われる。華蓋の下に被葬者である軑侯夫人と思われる女主人が杖をつき、3人の侍女を従えているところが描かれている。

1989.3.20 中華人民共和国発行



《中山靖王墓文物》


長信宮鍍金銅燈 蟠龍文鍍金小口壺

金象嵌博山爐 朱雀街環杯

河北省満城県の満城漢墓の出土品。1968年に演習中の兵士によって発見される。墓はいずれも山の崖面に穿たれており、遺骸は玉札を金糸でつなぎあわせた「金縷玉衣」に包まれて埋葬されていた。2基の墓からは合わせて2800点もの副葬品が出土した。
副葬品の銘から、前漢の武帝の異母兄・中山靖王劉勝(前113年没。120余人の子があり、蜀帝劉備が子孫と称したことで知られる)とその妻竇綰(前104年没)の墓であることが判明している。

長信宮鍍金銅燈 : 2号墓(竇綰墓)出土。 器高48cm。宮女がひざまずいて手提げ燈を差し上げる形に作られ、銅燈の明かり窓は、時に応じて 自在に開閉でき、燈明の煙は宮女の右手を通って、彼女の体内に入るようになっている。

金象嵌博山爐 : 1号墓(劉勝墓)出土。 蓋は燃え盛る火のような形に鋳造され、器身には精美な文様が金象嵌されている。

2000.10.20 中華人民共和国発行



《文化大革命中の出土文物》





青花鳳頭扁壺
元(1271-1368)

1267年に造営された元の都・大都から出土。 考古調査は1964年に始まり、1974年に小休止している。 窖蔵遺跡からは数十点の青花磁器が発見され、いずれも器形・釉ともに高度な芸術水準を誇っている。






塗金舞馬術杯銀壺
唐(618-907)

1970年10月、西安南郊の何家村の窖蔵から出土。かつての長安の興化坊に相当する地域で、その地点から邠王李守礼(高宗の孫で章懐太子の子)の邸宅と比定されている。二つの陶製の甕からは唐代の文物1000点以上(金銀器205点)が発見された。安史の乱のとき、緊急避難の前に埋められたと見られる。
全高18.5cm



1973.11.20 中華人民共和国発行





参考文献:
『中国考古学の新発見』(雄山閣)
『古代中国文明』(フランクフォール/工藤元男監修/創元社)
「中国発掘物語 正・続」(『紙の道』陳舜臣中国ライブラリー23所収/集英社)
『新中国の考古学』(中国社会科学院考古研究所編著/関野雄監訳/平凡社)
『長江文明の発見 中国古代の謎に迫る』(徐朝龍/角川書店)
『中国の歴史1 神話から歴史へ 神話時代 夏王朝』(宮本一夫/講談社)
『NHKスペシャル四大文明 中国』(鶴間和幸・編著/NHK出版)


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