問題の人物は《マルグリット・ダンジュー》。
彼女の系譜について『歴史をさわがせた女たち』には次のように書いてあります。
まず第一に彼女の生まれたアンジュー家というのが、問題の家だった。フランス西部の穀倉地帯であるアンジュー地方の豪族で、9世紀の後半には、もう世界史に顔を出していた。(中略)なにせ“バラ戦争”と聞いて思い浮かぶのはリンドグレーンの『名探偵カッレくん』シリーズ(戦争ごっこのチーム名が、バラ戦争から名前を借りて白バラ軍と赤バラ軍、というだけのことです。;笑)、という時点で戦争の経過なぞ知っているはずもなく、
アンジュー家の先祖は何でもブルターニュ地方から出た成り上がり者らしいのだが、その家系からフルクという豪傑が出てアンジュー伯を名乗るようになった。残忍にして獰猛、かつ奸智にたけた男、と史上の評判はきわめて悪いが、(中略)
ともあれこのアンジュー家は中世の英仏史の中の台風の目のような存在で、歴史上問題の人物を何人か出した。その一人は英国へ渡ってプランタジネット朝を開いたヘンリー2世。
「ヨーク家のエリザベスはエドワード5世の娘ってことは書いてあるのに、ヘンリー7世は突然系図に登場するし、だいたい次の王朝名が“ランカスター”でも“ヨーク”でもなくて“テューダー”になっちゃうのはどうして?」
などと世界史の教科書を眺めて思ってた頃のこと、彼女の存在自体を知ったのが初めて。
なるほど、フランスには百年戦争過ぎまで続くアンジュー家という貴族の家系があって、その分家がイギリスのプランタジネット朝なんだ、と思いこんでしまったのでした。
さて、めでたく大学に進学後、中世史概論のような講義をとったところ、トピックの一つが「アンジュー帝国」でした。イングランド王ヘンリー2世は、父譲りのアンジュー伯領と妻の領地アキテーヌ公領という、フランス王より遙かに多い領地をフランス領内に持っていました。各国史的枠組みだと分断されてしまうこの支配領域を、一まとまりとして捉えようというのがこの“帝国”という概念なわけですが、それはさておくとして。とにかく、きいていると、どうも自分の思いこみが成り立たなくなってくるのです。
まず、アンジュー伯ジョフロワにはアンリ(=ヘンリー2世)とジョフロワという二人の息子がいましたが、ジョフロワはブルターニュを継ぐことが決まってまもなく死去。ゆえにヘンリー2世は両親の遺産を独り占めできる立場にあったわけですから、この時点で分家なぞおきるわけがない。
ではその息子の代ではどうかといえば、長男ウィリアムは早世、二男ヘンリーも父親の跡を継ぐ前に死んでいますし、三男はかのリチャード獅子心王、王位を継いでいます。四男ジェフリーはブルターニュ公家の跡継ぎになっているし、末っ子ジョンは・・・1204年、肝心のアンジュー伯領をフランス王に奪われている始末。
ならば娘はどうか。長女マティルダはドイツのザクセン公家、次女エリノアはスペインのカスティリア王家、三女ジョウンはシチリア王(後にトゥールーズ伯夫人)に嫁いでいます。しかし、アンジュー伯領が娘を経由して孫に渡った気配は全くなし。
しかも、イタリアのホーエンシュタウフェン家にとどめを刺した人物として、シャルル・ダンジューなんて名前まででてきて、混乱は増すばかり・・・
どういうこと、これ? とあちこち当たって調べた結果。
どうやら、“アンジュー家”と呼ばれる家には3つの系統があるらしいのです。
(以下の系図参照。わかりやすくするため、必要最低限の人物しか書いてありません。)
フルク以来の“アンジュー伯家”は、ジョンの時点で“断絶”。以後のアンジューはフランス王家が直接支配していたようですが、1247年、“親王領”として王弟シャルルに授封されます。このシャルル・ダンジューから始まるのが2番目のアンジュー家。ちなみにこの人、他に妻譲りのプロヴァンス伯領という領地があり、ホーエンシュタウフェン家を滅ぼしてシチリア王位を手に入れたりしてます。(「シチリアの晩祷」(彼の支配に反発したシチリア島民によるフランス人大虐殺)をきっかけにシチリアはスペインのアラゴン王に奪われますが、ナポリ王国は支配下においていました。)彼の子孫を見ていくと、ハンガリーやポーランドの王位を継いでアンジュー朝を出現させたりしていて、なかなかおもしろいのですが、それはさておき。
1290年、シャルルの孫マルグリットとの結婚を通じて、ヴァロワ伯シャルルがアンジュー伯を兼ねることになります。以後ヴァロワ朝の王たちがアンジュー伯領を支配するのですが、1356年、ジャン2世の時に王子ルイに“親王領”として与えられます。このアンジュー公ルイ1世から始まるのが3番目のアンジュー家。彼の曾孫として、やっと登場するのが、問題のマルグリット・ダンジューというわけ。 ちなみに“勝利王”シャルル7世の王妃はこのアンジュー家の出身でマルグリットのおばに当たります。
こうして見る限り、マルグリットはフランスの名門貴族の出身だからというよりはむしろ、フランス王家の一族の娘として、フランス王妃の姪たる立場で嫁いでいったとみる方が良さそうです。父親のルネはロレーヌ公、プロヴァンス伯、アンジュー公、ナポリ王、と肩書きだけはやたらに持っていた人物なのですが、聞くところによればフランス王の援助でなんとか食いつないでいた貧乏貴族で、したがってマルグリットはろくな持参金もなく、それがイングランド貴族たちからの反感のもとになったのだとか。(どうも後世の評判あまりかんばしくない王妃様のようなので、調べてみるとまた違った事情がでてくるかもしれませんが。)ルネには他にも子どもがいますから、マルグリットは「ひとり娘」というわけでもありませんし。
見てのとおり、マルグリットが悪名高きフルク(=フルク・ネラ)の血を享けたオ姫サマ、というのは間違ってはいないといえばそうなのですが、そうすると、ヘンリー6世、ルイ11世も同様にフルクの血を引いているといわねばならないわけでして・・・