『王妃の離婚』

(つっこみ過多の個人的感想)

 映画「ジャンヌ・ダルク」が公開された時、「敵性語をしゃべるジャンヌ・ダルク!」とみんなでツッコミを入れた大学時代。(ビデオになったあとで見ましたが、“躁鬱病”もしくは “いっちゃってる”としか思えなかったです・・・)
『王妃の離婚』(佐藤賢一・著/集英社)が直木賞を受賞した時も、作者が西洋史を専攻して大学院まで出てる、ということもあって結構話題になりました。「電車に乗って読める本じゃない」、とか(笑)。
 ジャンヌ・ド・フランス、とはまた随分マイナーな人を取り上げるんだな〜と興味は持ちつつ、当時すぐに読まなかったのは、卒論がかかってるのにそんな、直接関係ない時代(いくらなんでもノルマン・コンクエストから百年戦争あたり、までには時代をしぼってましたから) の話読んでる暇なんて! ・・・というのもありましたが、図書館で予約しても相当待たされるのが 確実だったため(笑)。というわけで、普通に開架の本棚に並ぶようになるのを気長に待ってたので、実際に読んだのは卒論提出後から数ヶ月も経ってからのことでした。シャルル8世の死後王位を継いだルイ12世は、即位後まもなく、王妃ジャンヌを離婚しようとして裁判を起こします。その裁判を傍聴にでかけた弁護士フランソワ・ベトゥーラスが、いろいろな事情からジャンヌ王妃の弁護を引き受けることになり、権力を敵に回して奮闘するというストーリー。

 当時のフランスの状況に疎い私、この離婚裁判がどの程度記録に基づいているのか、フランソワ・ベトゥーラスという弁護士が実在の人物なのか、全く知りません。思想史文化史あたりもてんで不勉強なため、神学上の問題やカルチェ・ラタンなどについてもほぼ知識ゼロ。第一、自慢にも何もなりませんが、中世史を勉強したとか言いながらラテン語の勉強は全くせず、英仏外交史を扱いながらフランス語もからっきし(汗)。ええ、中国史をかじった人間ですから、西洋中世史に詳しくなかったとしても、 なんで○○坊主が無精髭なんだ、くらいの疑問は抱いたことでしょうが(爆)、ブルゴーニュ公シャルルはスイス軍と戦ったナンシーの戦いで戦死したのであって、ルイ11世に粛清されたわけじゃない(まあ、ルイの策謀で戦う羽目になったとは言えなくもないようですが)とか、オーエンという名前がスコットランド系じゃなくてウェールズ人に聞こえる(時代の近いところでこの名前の人というと、思いつくのがヘンリー7世の祖父でヘンリー5世の未亡人の再婚相手オーウェン・テューダーなんですが、この人が確かウェールズ人だったはず。ネイティブ・プリンス・オブ・ウェールズ(英国皇太子の称号になる前の、本来のウェールズ首長のこと)にもオーウェンて名前多いですし。) とか、サリカ法典で禁じられたのは女系の王位継承のはず(神に認められた正式な結婚以外から生まれた庶子が王位を継げないのがキリスト教世界の常識。わざわざ法律で禁じるまでもないんじゃないかと。)、とか、まあ些末なところをつっこむのがせいぜいのはずの人間が、何でこんな文章を書こうと思ったか。拙いながら、卒論のテーマに婚姻外交をとりあげた身としては、「王女様ともあろう人がこんなでいいのか?」だった、のです。

 作中に裁判記録を読もうとするジャンヌ王妃の苦闘の跡が描かれた場面がありますが、ジャンヌ王妃の「教養程度のラテン語」とは一体どの程度のものだったんでしょうか?
当時まだ、世にラテン語以外で書かれた聖書は存在してません(マルティン・ルターは当時15歳・・・もっともドイツ語訳じゃ、あったとしても役に立ちませんが)。 となると、専門用語の羅列で妙に凝った文章だったから読めなかった、のであればいいのですが、初心者向けの初等文法からやり直さなければならないような語学力、だったりしたら、信仰篤い王妃様は一人で聖書も読めないということになってしまいます。
何でそんなことが気になったかといえば、婚姻外交の担い手として外国に嫁ぐかもしれない王女様が 、ラテン語できないようでは困るだろうと思ったから。大体同時代の例を挙げれば、ヘンリー7世の王妃マーガレット・オヴ・ヨークはカスティリアのイサベル女王あての手紙をラテン語で書いてます。 Letters of the Queens of England Anne Crawford ed. Sutton より。) 国内の貴族に嫁いで、しかもほとんど隠遁者みたいな生活送ってる分にはまあ、必要ないかもしれませんが、王女様として生まれたからには、外国に嫁いでお妃様になる可能性は大いにあるわけで、だとすれば、挨拶状が書けるくらいのラテン語は教育されてるのが普通だろう、と思うわけです。よっぽど親に見放されてなければ。

 簡単に「政略結婚」といいますが、嫁にやったらあとは知らない、ではないのです。実家の一大事の時には嫁ぎ先から援助を引き出す(逆もあり)、実家と嫁ぎ先が仲違いした時には仲裁をする、嫁ぐ女性にはそういう役割が期待されていました。ですから実家側は、教育その他準備万端整えて送り出してましたし(準備不足で送り出したり、若年出産で落命する危険を避けるため、結婚の年齢を上げていたふしもあるらしい。このあたりの婚姻外交に関する記述はParsons, J.C. "Mothers, Daughters,Marriage,Power: Some Plantagenet Evidence,1150-1500" in Medieval Queenship ed. J.C.Parsons, New York を参照してます。)、 嫁がせた後も援助を惜しみませんでした。(例えばカスティリア王アルフォンソ10世、妹の待遇を上げてやってくれ、と義弟のエドワード1世に頼んでいる・・・というわけで、作中でマルグリット・デコスが孤立無援にほっとかれた理由が謎。ジェームズ1世、娘に死んでもらわにゃならん事情でもあったんでしょうか。ルイ11世がオルレアン公に圧力かけたとは書いてあるのに。)
作中でベトゥーラス弁護士、この離婚裁判がチェ−ザレ・ボルジアの売り込みのための教皇アレクサンデル6世の駆け引きに使われていることを見て取ります。しかし、です。そんな、ナントから来たばかりの弁護士にすぐ分かるような外交情勢を、王妃様は把握できてなかったんでしょうか? 裁判の作戦にアイデアを出せる聡明さを備えてるってのに。
実家が絶えてしまった、ということは後ろ盾になってくれる人間もいないということです。重要な領地の相続人であるわけでも、跡継ぎを握っているわけでもない。状況を客観的にみれば、教皇と王が合意に達すれば離婚は認められるだろうし、せいぜい離婚後の待遇の条件闘争になるのが関の山、という判断はできていたはず。承知の上で抵抗の気概を示してくれるのは結構なのですが、そのくらいの政治的外交的ヨミができないようでは、婚姻外交の担い手なんか務まらないんじゃないかと・・・。 『ハプスブルク家の女たち』(江村洋・著 講談社現代新書) にジャンヌ王妃の姉のアンヌ・ド・ボージューのことが「なかなかの遣手の女性で、狡猾な父親譲りの切れ物として知られ、この時代のフランス王家の実権を握り、父の政治を陰で動かしているとも言われた」と書いてあったりするのを見ると、この妹娘では(政治的に重要な人物にはなりそうもない) オルレアン公あたりに押しつけるしかなさそうだ、というのがルイ11世の判断だったじゃないの? と勘ぐりたくもなってくる私。

 そして、これさえなければこんな拙い文章をものすることはしなかったんじゃないかと思えるほどの 最大の違和感の原因は、作中でルイ12世側が、ジャンヌ王妃のことを足の悪い不美人だとやたらに強調することでした。ジャンヌ王妃の綽名が「足萎え」だか「びっこ」だかってのを知らなかったわけじゃないんです。でも、その形容、他の女性にも当てはまるんじゃなかったっけ?
アンヌ・ド・ブルターニュ。 ええ、ルイ12世がジャンヌと離婚して結婚したがった、他ならぬその女性ですよ。手近なところでふたたび『ハプスブルク家の女たち』を引用すれば、
「魅力的な女性というにはほど遠く、しかも生まれつき歩行に困難をきたしていた」
と書かれているのです。 『王妃アリエノール・ダキテーヌ』(レジーヌ・ペルヌー/福本秀子・訳/パピルス)に挟まれていた樺山先生の文章には「思慮深そうな顔立ち」とあったと記憶しておりますが、要するにとびきりの美人でなかったことは確かなようで、それにどちらも足が悪かった、ということでは共通しているのです。いや、リチャード1世やエドワード2世のホモ疑惑のように、きちんと調べてみたらそのような事実はありませんでした、という結論が出るのかもしれませんけど、それにしても「厚みのある唇に色気がある、妙齢の美人」という作中の描写は、何を根拠に書かれたのでしょうか???
何でアンヌだけ美人になっちゃってるわけ? という疑問が拭えなかったがゆえにストーリーがうまくのみこめなかった身としては、ものすごく気になるところであります。
フィクションだとしたら、相当きわどい設定ですよね。ブルターニュ公国最後の女公、そんなに知られざる存在でもないと思うんですが・・・。

【ヴァロワ家】


             ジャン2世                   ブルボン公
               |                     ピエール1世
               |                       |
        ┌――――――┴――――――┐                |
        |             |       ┌――――――――┴――――――――┐
     ブルゴーニュ公          |       |                 |
      フィリップ        シャルル5世===ジャンヌ               ルイ2世
        |                 |                     |  
        |                 |                     |
        |         ┌―――――――┴―――――――┐             |
       ジャン        |               |           ジャン1世
        |         |               |             |
        |       オルレアン公          シャルル6世          |
  ┌―――――┴―――――┐  ルイ               |             |
  |           |   |               |             |
  | クレーフェ公    |   |             シャルル7世          |
  | アドルフ4世===マリー  |    サヴォイア公     |    スコットランド王 |
  |        |      |    ルドヴィーコ     |     ジェームズ1世 |
フィリップ      |      |       |       |       |     |
  |        |      |       |       |       |     |
  |        |      |     カルロッタ===ルイ11世===マーガレット  |
  |       マリー===シャルル          |               シャルル1世
シャルル          |               |                 |
              |      ┌――――――――┴―――――┬――――┐      |
              |      |              |    |      | 
            ルイ12世===ジャンヌ            |   アンヌ===ピエール2世
                                    |
                                    |
                       ブルターニュ公女     |
                            アンヌ===シャルル8世
       
全くの余談ですが、『ルネサンスの女たち』(塩野七生著・中公文庫)にチェーザレ・ボルジアがルイ12世のいとこと結婚したという記述があります。 手元の系図集を調べたところ、ナヴァール王ジャン3世とその妹(在位年代から推測) シャルロット・ダルブレの母親はリモ−ジュ伯ギョームの娘Françoiseということは判った ので、いとこという記述を信じれば、Alain d'Albretがクレーフェ公アドルフ4世の息子か、 シャルル・ドルレアンの兄弟か、ていうことになるんですが・・・さてどっち?

2002.1.26 up

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