“Lackland”

イングランド王ジョン : 1167年生  在位1199〜1216

  マグナ・カルタと権利の請願と権利章典。これを3点セットで覚えさせられた中学の公民の授業がこの王様との初顔合わせだったのはまず間違いないのですが、

「戦争に負けて領地をフランスにとられたため、失地王というあだ名がついた」
「人気のない王様だったため、これ以後ジョンという名前の王はイギリスには登場しない」

てな話を聞いたのもこの時だったか、それとも高校の世界史の授業だったか、そのへんはちょっと定かではありません。
確かに、系図を見てもジョン2世という王様は登場しませんから、その時はなるほどと思って聞いてた覚えがあるんですが、少し詳しくなってみると、ちょっと異議を唱えたくなってきて。
別にジョン王擁護論をぶつわけではなく、単純に名前に関しての“異議あり”です(笑)。

まずは“失地王”というあだなの話から。
日本語で読める伝記が複数あるのはこの人しかいない(『王妃アリエノール・ダキテーヌ』 レジーヌ・ペルヌー 福本秀子訳 パピルス ほか)、というわけで、イングランド中世史を勉強するにあたってとっかかりになったのはアリエノール・ダキテーヌ。言わずとしれた、リチャード獅子心王及びジョンの母親です。最初のダンナがフランス王、再婚相手がイングランド王、ご本人も万事につけてスケールの大きい人で、82までと長生きもしてるとあって、この人の一生を追っかければ、12世紀の英仏の状況はだいたい頭に入るというわけで。

読んでるうちに分かったのですが、実は“Lackland”(土地無し)というあだ名をジョンにつけたのは、父親のヘンリー2世だったのですね。アリエノールの一番のお気に入りの息子は、後の「獅子心王」リチャードだったのですが、夫婦仲が修復不可能状態になってから生まれたという事情が関係あるのかどうか(ジョンの誕生後すぐ、アリエノールはヘンリーと別居、リチャードとアキテーヌに帰ってしまう)、父親に一番かわいがられたのはジョンだったとか。で、何でまた一番かわいがられた息子が「土地無し」なんてあだ名をもらうはめになったかといえば、末っ子だったゆえ、一人前になる前に、両親の持つ土地は兄たちに分配されてしまっていたからなのでした。アンジュー家所有の大陸領及びイングランドは一番年長の息子、もちろん跡継ぎのヘンリーが、そしてアリエノール所有のアキテーヌはリチャードが継ぐことになっていました。その下のジェフリーにはブルターニュ公の相続人を婚約者とすることでブルターニュ公領が確保されていましたが、ジョンまでとなると、上の二人あたりから分け前を回してもらわないとやる土地がない。そこで無理を通そうとしたのがたたって他の息子には反乱を起こされたりするなど、この末っ子の土地問題、ヘンリー2世の晩年のごたごたのもとになってたりするのですが・・・。

仏王フィリップ2世に先祖伝来の大陸領を奪われて、本当に“土地無し”になってしまったためにこのあだなが有名になってしまったのは確かなんでしょうけど、ともかく、その前からジョンは“Lackland”だったわけです。となると、「失地王」って少々不的確な訳語なのです。「土地を失ったから“失地王”」という説明になるのも、この訳語に引きずられるせいかもしれません。たまに「欠地王」という訳を見かけますが、こちらの方が正確な訳ではあるのでした。

「ジョンという名前の王が一人しかいないのは、ジョン王があまりに 不人気だったため」
という説をおかしいな、と思い始めたのは、自分で系図を書いていた時。
本当に不人気な名前だったのなら、まず王子の名前に“ジョン”ってつけませんよね。
じゃあ実際、イギリス王家では子どもに洗礼者ヨハネの名前をつけるのを避けていたかといえば、そんなことはないのでして。
エドワード2世は次男にジョンとつけていますし、エドワード3世の四男もジョン。
若死にしたのが弟でなくて兄の方だったらエドワード3世ならぬジョン2世になっていたのだし、第2代ランカスター公が自分の代で王位簒奪に成功していたら、やっぱりこれもジョン2世と呼ばれたはず・・・というと仮定の話になってしまいますが、確かに長男に“ジョン”とつけている例はあるんです。
エドワード1世が長男につけた名前は“ジョン”。5歳で夭折したこの子がちゃんと育って王位についていたら、間違いなく“ジョン2世”が誕生していたはずなのです。

いや、そんなことはない、やっぱりジョンという名前は不人気だったのだと言われるのなら、こちらも不人気だったんじゃないのと勘ぐりたくなる名前が、実はあるのです。
“ウィリアム”ですよ。
確かに、ウィリアムには3世も4世もいます。しかし、名誉革命のいきさつをご存じなら、ウィリアム3世がどういう出身の人かもお分かりのはず。即位する前は“オラニエ公ヴィレム2世”、母方からイギリス人の血をひいているとはいえ、この方、オランダ人です。
しかも、ウィリアム3世の在位は1689年〜1702年。ウィリアム2世の在位が1087年〜1100年ですから、実に間が空くこと約600年。ジェームズ2世の娘がダンナともども実家に帰ってくる、なんて事態が起きなければ、ウィリアム3世が出現するまでにはさらに間があいていた可能性あり。
征服王ウィリアムの名前にしてこの実態。あんまり指摘されていないような気がするんですが・・・。

【イングランド王家】


                   ウィリアム1世
                      |
        ┌―――――――――┬―――┴――――┬―――――――┐
        |         |        |       |
      ヘンリー1世   ウィリアム2世   リシャール   ロベール
        |                      ノルマンディー公
   ┌――――┴―――┐
   |        |       アンジュー伯
 ウィリアム    マティルダ=====ジョフロワ
                 |
                 |          アキテーヌ公女
               ヘンリー2世=======アリエノール
                        |
        ┌――――――┬――――――――┼―――――――┬―――――――┐
        |      │        |       |       |
       ジョン   ジェフリー   リチャード1世   ヘンリー   ウィリアム
        |   ブルターニュ公
        |
    ┌―――┴―――┐
    |       |
  リチャード   ヘンリー3世
コーンウォール伯    |
            |
      ┌―――――┴―――――┐
      |           |
      |           |
    エドマンド      エドワード1世
   ランカスター伯        |
                  |
   ┌――――――┬―――――――┼―――――――――┬――――――┬――――――┐
   |      │       |         |      |      |
   |      |       |         |      |      |
 エドマンド   トマス   エドワード2世   アルフォンス   ヘンリー   ジョン
 ケント伯  ノーフォーク伯    |
                  |
            ┌―――――┴―――――┐
            |           |
            |           |
           ジョン       エドワード3世
         コーンウォール伯       |
                        |
    ┌――――――――┬――――――――┬―┴――――――┬――――――――┬―――――――┐
    |        |        |        |        |       |
    |        |        |        |        |       |
 グロースター公   ヨーク公    ランカスター公   クラレンス公     |      黒太子
   トマス     エドマンド     ジョン     ライオネル    ウィリアム   エドワード
             |        |                         |
             |        |                         |
           リチャード    ヘンリー4世                   リチャード2世
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             |        |
           リチャード    ヘンリー5世
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             |        |
             |        |
          エドワード4世   ヘンリー6世

2001.11.28 up

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