『記』『紀』における神々の愛と死、聖徳太子と蘇我馬子、赤穂浪士、近松の心中、抱月・須磨子、二・二六事件、三島由紀夫の自決など、歴史上の人物に見るさまざまな生と死を扱ったエッセイ。評論というほどかっちりしたものではなく、もう少しくだけた感じで読みやすい文体です。
少し前に読み返した時に、曾我兄弟のくだりで永井路子氏の説が引用されているのを見つけて、ちょっと驚きました。確かに永井作品にはまる前に読んだ本なのですが、全く印象に残っていなかったので・・・
古代・中世あたりのところはいろいろ思うこともあって、なかなか素直に読めないところがありましたが(苦笑)、対象がフィクションである近松や南北・黙阿弥のあたりは興味深く読めました。
幽霊話の印象しかなかった『東海道四谷怪談』ですが、忠臣蔵的イデオロギーの嘲笑者としての民谷伊右衛門が論じられているのを、なるほどと思いながら読みましたし、黙阿弥の白波狂言での「因果」の駆使に社会の背後にある「見えざる手」をみているのも面白かったです。
とりわけ「戦後」との折合いのつけかた、という点から考察された「三島由紀夫の自決」を面白く読みました。
読むきっかけは、『紅一点論』に『宇宙戦艦ヤマト』が「日本が勝つように書き直された第二次大戦の物語」という引用があるのが気になったこと。敵星ガミラスのモデルがナチスドイツって、同盟国と戦う話にしてどうするよ! と思ってしまったのですね。実は続くくだりで「日本の立場を枢軸国側から連合国側に移した第二次世界大戦の物語」という指摘もされていたのでした。それなら分かります、はい。もっとも『さらば宇宙戦艦ヤマト』の彗星帝国はアメリカのイメージだそうですが・・・
戦後民主主義の問題点という観点からアニメやマンガ、特撮映画を論じた評論。俎上に乗せられているのは『ヤマト』のほか『沈黙の艦隊』、宮崎アニメにゴジラ、ウルトラマン、安彦良和と押井守など。取り上げられている作品てものをほとんど見ても読んでもいないということもあって(宮崎アニメとマンガ版『東京ラブストーリー』くらい)、大体はなるほどと思いながら読みました。ただ、最後まで何か消化不良のように残ってしまったのが、そもそもその戦後民主主義てなに? という疑問。どこかでその定義とか成り立ちとかを整理しておいてもらえると、もう少しのみこみやすい論になったんじゃないかと思います。
ちなみに、一番個人的に面白かったのが『おもひでぽろぽろ』を論じた章。中学か高校の時にテレビ放映を見て、なんなのこのラスト、って唖然としたのを、読みながら鮮明に思い出しました(著者のように“激怒”じゃなかったのは、お金払って見に行ったんじゃないからでしょうな)。“村人が「貧しくともなにごとにつけ助けあい、楽しみを分かちあって暮らしている」といった、およそありえない理想としての村”への憧れとしての農村賛美、にこだわったがゆえにゆえに作品が破綻してしまったという指摘、思いきり納得です。とはいえ、割と見かけるんですよね〜、こういう発想。
『ナウシカ』については、作品にあちこち綻びがあるのは納得するとして(『おもひで』のさらにその前に見たんですからいい加減忘れちゃいるんですが)、環境保護とヒューマニズムが両立しないと一般論で言い切っちゃうのは言い過ぎじゃないかと思いましたが。作中の設定は相当極端なんですから・・・
忘れもしない転校初日。掃除の時間でした。先生の指示は「机つってー」。この学校は掃除の時に机を
クレーンで吊り上げるのか、と一瞬本気で思った私。まわりのみんなが机を下げ始めたのを見て、ああ、後ろに下げることなのか、とすぐ分かりはしたんですが。
世の中に方言てものがあると知らなかったわけではなく、「駄目」の意味で「あかん」と言われてびっくりしたのが、多分記憶に残る方言初体験。
(大分後になって新聞の子どもの迷?発言を取り上げるようなコーナーに、もらいもののお菓子を孫が欲しがるのでおばあちゃん(関西人)が「あかん、あかん」とたしなめたら、孫は「あくんよ、あくんよ」と地団駄踏んだ、という話が載っていて、笑ってしまいました。山口・広島あたりでは「いけん」でないと通じません。)
しかしこれはまあ、たまたま紛れ込んだ非日常、という感じだったわけで、自分一人だけが異邦人になったようなショックというのは、やはり強烈さが違いました。
ともかくそういうわけで、私、地元ネタの分かるよそもん、というちょっと特殊な立場でこの本を楽しんだのでした(笑)。そうそう、鍵は「かう」でご飯は「つける」だとか、「うちのお父さんの趣味は機械をなぶることです」なんて作文があってびっくりしたっけ、とか、なんで「いつか」の後に過去形が続くんだろうって思ったねー、とか(「いっつか」というと「とっくに」の意味)。
「Dragons」の刻印きしめんも実見したことはあるし、移送中の牛が脱走して住宅街を逃げ回って、というニュースを見ていたら、飼い主さんが「こんなおおちゃくい牛は初めてだ」とコメントして、一家爆笑したこともありましたっけ(おおちゃく=乱暴・いたずらの意味。おおちゃく坊主などと言います)。
などなど、読んでいると思い出すネタにはこと欠かず。本当に“辞書”として役に立ってもらったこともありました(笑)。就職してから、雑談中に「子どもちょうらかして」と上司に言われて、うちに帰ってからこれを引きましたよ(言いくるめる、のニュアンスでした)。考えてみたら「しとらっせる(=していらっしゃる)」だの「ごぶれいする(=お先に失礼する)」だのって言葉は社会人になってからのがよく耳にする言葉だったりしますね〜。
男の子が「出世して社長になるんだよ」と言われれば、その子は頑張って社長を目指すだろう。同じことを女の子に言えばどうか。最初は社長を目指して頑張るだろうけれど、途中でちょっと悩むはずだ。「あたしには社長夫人になる手もあるのよねえ」と。そう、立派な職業人になることと、立派な家庭人になることと、女の子には出世の道が二つあるのだ。
明治から現在に至るまでの女の子の出世の道と出世願望の歴史を追ったのがこの本。「進歩史観」でも「抑圧史観」でもない「欲望史観」で書かれているだけに今まで知らなかった意外な事実が盛りだくさん。読者がこれだけ面白がれるんだから、そりゃあ書く方は“興奮と発見の連続”だったにちがいなかろうと思われます。
街ゆく若い娘に対するバッシングがそれこそ伝統的だというのはなんとなく想像がつくし、特徴として挙げられるのが「頭髪・服装・ことばづかい」だというのも言われてみればなるほどという感じだけど、「よくってよ」「〜だわ」「〜なのよ」という言葉遣い、これって明治末期の女学生言葉で非難の的だった、というのには驚いた。80年代で言うところの「ウッソー」「ヤッダー」「ホントー」、90年代の「ってゆ〜かあ」「チョー」「みたいなぁ」に相当するような扱いだったんですね〜。いまや
すっかり“お上品”なお嬢様&奥様言葉、いやあ変われば変わるもんだ。
今ではすっかりホーケン的女性サベツ的なイメージしかない「良妻賢母」という概念、これが近代の発明品だったというからこれまた驚き。「三従」だのなんだので人格なんか認められてこなかった女性に
初めて「良妻」や「賢母」という“役割”を認めた、西洋輸入の革新的な思想だったんですね。
実際、日清戦争以後に国がこれを打ち出してから女学校の進学率がめきめき上昇、第一次大戦後には職業婦人の数が増え、かくして1920年代には“女学生→職業婦人→主婦”というコースが出世コースのモデルケースとなったのだという。
このモデルケース、いまやすっかりおなじみのものなわけで、当然今と同じ問題も顕在化してはいた。女学校は中途半端な花嫁学校、職業婦人は半人前扱い、夫の収入にすべてを頼る主婦の立場の危うさなど。ただし、貧困というもっと大きな問題を抱えた社会では、それって「恵まれた少数派のワガママ」でしかなく、さらにみんなの不満をみごとに解消してくれるビッグイベントまで起きてしまった。
そう、「第二次世界大戦」。お国のために、なんて言うから辛気くさいのだけれど、社会のためと言い換えてみれば、目的意識ははっきり持てるわ、メディアには取り上げてもらえるとなれば、それは張り切ってしまうのも分かる気がする。だからこそリベラル女性知識人が率先して戦争協力をアピールしてしまうことにもなるんですね。否応なく戦争に協力させられていった、というのより、ボランティア活動的ノリで戦争協力をやっていた、という方が考えてみればよっぽどコワイ。
そして戦後。高度経済成長の中で“女学生→職業婦人→主婦”のコースは多数派の地位を占めるようになり、やっぱり出てきたのは戦前と同じ矛盾。解消する代わりに「もうひとつ上」の脱OL・脱専業主婦を目指されて新たな階層化を生むだけに終わり・・・そして夢が持てなくなる現在に至ることに。
巻末の「戦前戦後の女性の動き・対照表」を見ると時代の動きが実によく似ていることに驚きます。
このままいくとみんなの不満を解消するべく戦争へ・・・なんてとこまでは似ないで欲しいもんだと切に祈るのだけど、分かりませんねえ・・・
他人の感想にあれこれ言うのもなんだと思うので、読書エッセイ的な本は自分の読書の参考にだけする方針できましたが、これだけ思うことがいっぱいでてくるとやっぱり書きたい! というわけで書くことにしてしまいました(笑)。
内容は『月刊百科』に連載されていたベストセラー評。ベストセラーに興味はあれど、時間と金を割いてまで読む気がしないみなさまの代わりに、読んで内容をご報告いたしましょう、という主旨の実に便利な一冊であります(笑)。
もちろんこの本でもいつもの斎藤流は健在で、「究極の癒しは「寂しいお父さん」に効く物語だった」「大人の本は「中学生向け」につくるとちょうどいい」「ものすごく売れる本はゆるい、明るい、衛生無害」などなど実に舌鋒鋭く、かつナルホドと思わせる視点から斬りまくり。
それを面白がれる私はもちろん、著者言うところの「邪悪な読者」であるわけで(笑)、実際、この中で曲がりなりにも読んだのは『永遠の仔』のみ。一部斜め読みでも『五体不満足』と『だから、あなたも生きぬいて』だけですからね。『模倣犯』を読んでいないのは図書館に出まわらないのに加え、同じ作者の某作品に似ていることを知ってしまったため、とりあえず後回しにしてもいいか、と思っているのが理由ですが。
この人の本なら外れはない! と思っているとはいえ、書評のすべてに納得してきたわけでもありません。『失楽園』に関してなら、個人的には『あほらし屋の鐘が鳴る』所収の評よりも高橋源一郎氏の評(『文学なんかこわくない』所収)の方が面白かった。『テロリストのパラソル』の評を読んだときには、これがハードボイルドの典型と思われちゃ・・・、と思った(主人公が若い娘にモテるのがハードボイルドの条件じゃないんですが・・・。ちなみに私の感想は
こちら)。この本でご本人が「斎藤、エンタテイメント文学、不得手です」と書いているのも納得できるふしはある。『永遠の仔』がアダルトチルドレンの小説であることなら、私でも読んでないうちから知ってたことを思うと、「誰も表だって指摘しない」というのは当たってないでしょう。「鉄道員」が“怪談”だという事実もなんとなく聞いた記憶はありますし。
とまあ、引っかかるところも少々ありましたが、大筋ではまったくそうよね〜、と深く頷いたのでした。『永遠の仔』が“曲がりなりに読んだ”なのは、上巻の後半あたりで読む意欲を喪失、結末知りたさのためだけにものすごいとばし読みをしたからなんですね。私、ファイフィールドの作品も結構好きだったりするので、アダチルがミステリに出てきたってそれは全然構いません。しかし何のひねりもなくこれでもかこれでもかと気の滅入る話が続く上に、このぶ厚さ!
「こんなにベタベタな「親の因果が子に報い」の話ってある?」というのにまったく同感。
浅田次郎作品ののあざとさについていけない身としては、
「クーッ。こんなこと、死んだ娘でもなきゃ、いってくれねえべ。したって、生きてる娘だったら「こんな田舎、なんもいいことないっしょ」とかいって、頭を金髪に染めてきたりするに決まってるもの」のくだりにしっかり大爆笑させてもらいましたし。
とりわけ、これを指摘してくれた人っていなかったよねー、と思ったのが『だから、あなたも生きぬいて』。私も「著者の経歴」につられてこの本を手に取ったクチなのだけど、面白そうなところから読もう、と非行少女時代あたりから読み出して、この章を読み終わったあたりで読む気を無くしたのでした。なんか、すごーくはぐらかされたような気分になったんです。
「気づいたときには……って、それはないんじゃないでしょうか。」「わかるけど、一六歳から二二歳までの時間が空白ってことはないだろう。」そうなんです。“いかに道を外れていったか”って過程はほとんど空白。この本の読みどころって、合格体験記の方だったんですね。そういう惹句をつけといてくれれば、そのつもりで読んだのに。
あと、『声に出して読みたい日本語』は読んだことないんですが、この絵本バージョンみたいなやつを見かけたことがあります。「驚き桃の木山椒の木」みたいな洒落や語呂合わせみたいなやつに挿し絵をつけた本なんですが、・・・これはちょっとやりすぎじゃない? というのが正直な感想でした。こんな言葉どこから探してきたのよ? と思うようなのが入ってたりするし。ほんとにちっちゃい子にはこれが言葉遊びだってことが分かんないだろうし、も少し大きい子は・・・おやじギャグ集くらいにしか受け止められないような気がしましたが・・・(狂言回し役が爺さまだし)。
ところでこの本の前書きに登場する「朝の10分間読書運動」てやつ、その存在を知った時には、自分の学生時代がそんなもんが導入される前でよかった〜、としみじみ思ったものです。だって10分間てったら、調子の出てきたところで「はい、おしまい」ですよ。10分で読み切れて後を引かない本、を探さなきゃならないかと思うと目眩がします。
自他ともに認める“本の虫”の私ですが、振り返ってみると、本をよく読むということで褒められたことってほとんどない。むしろ教室で本ばっかり読んでるってんでむしろ風当たりは強かった。
ま、しかし、道徳の時間に「プロジェクトX」のビデオを見せられ、『五体不満足』や『だから、あなたも生きぬいて』あたりを読んで感想文を書かされるのが昨今のお子様がただということを考えると、根っからの邪悪な読者としては、先生に睨まれているくらいでちょうど良かったかな、と思うこのごろだったりして・・・。