【コロンブス】 1446?〜1506 イタリア・ジェノヴァ生まれの航海者。ジェノヴァ商人の息子として地中海商船の業務に従事、1478年にリスボンに移住。トスカネリの地球球体説を信じ、アジアへの最短路を求めて大西洋航海を企画。1492年スペイン女王イサベルの援助を得ることに成功、8月サンタ・マリア号など3隻の船でバロスを出帆。大西洋を西航し、10月西インド諸島を発見し、バハマ諸島のグアナハニ島に上陸した。その後も探検を続けたが、原住民の反乱に悩まされ、総督の地位からはずされた。新大陸をインドであると信じたまま、不遇のうちに死んだ。
バスコ・ダ・ガマの喜望峰回航ののち、ポルトガル王マヌエル1世はその航路を確認するためカブラルに命じて、1500年3月9日第2次インド遠征艦隊を出航させた。カブラルはギニア湾の無風地帯を避けるために大西洋航路を南西にとった結果、同年4月22日ブラジルを発見した。
1494年のトルデリシャス条約で、アフリカ大陸西端のヴェルデ岬沖の島から西へ約1800キロを境界線として、その東側で発見された土地はポルトガルの領土、西側で発見された土地はスペインの領土とする協定が結ばれていたため、ブラジルはポルトガル領となった。
本名ゲルハルト・クレメル(Gerhard Kremer)。ルネサンス期最大の地理学者。「メルカトル式投影図法」で知られる。東フランドルの出身。ルーヴァン大学で数学、天文学、宇宙形状誌学を学ぶ。1541年、のちに
カール5世に寄贈した直径41cmの地球儀を作成。プロテスタントの傾向を持っていたため迫害され、1552年ライン地方のデュースブルクに移住。1554年には15枚に及ぶヨーロッパ大地図を、1569年にはメルカトルの図法による世界地図を発表。この投影図法はメルカトルの発明ではないが、彼が最初に航海図に応用した。世界地図に「アメリカ」という名称を記した最初の人物でもある。
インカ帝国最後の皇帝(在位1532-1533)。父帝ワイナ・カパクの死後、嫡出の兄ワスカルと戦ってこれを殺し、全土を掌握した。のちスペインの侵略者ピサロの謀略で捕らわれ、処刑された。
ドイツのイエズス会宣教師。中国名湯若望。1622年中国に渡り、北京におもむいて天文観測で名声を上げる。1630年明朝に重用されるようになり、徐光啓と『崇禎暦書』を編纂。1636年には勅命で北京に炉を開き多数の火砲を鋳造した。明の滅亡後、清に仕え、西洋暦による「時憲暦」を完成し、欽天監監正(天文台長)に任命された。これにより順治帝の愛顧を得て布教事業を進め、北京に大天主堂(南堂)を建立したが、イスラム学者の讒言にあって失脚、北京で没した。