Early Modern History

《絶対王政から市民革命へ》

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16世紀のタペストリー

マクシミリアン1世  1459-1519

神聖ローマ帝国皇帝(在位1493-1519)。ハプスブルク家の出身の皇帝フリードリヒ3世の長子。1477年ブルゴーニュ公シャルルの娘マリーとの結婚をつうじてネーデルラント、ブルグントの領土を獲得、同時にフランス王家とハプスブルク家との宿命的な対立を生みだした。チロルをハプスブルク家の領土に加え、子や孫の結婚政策を通じてスペイン、ボヘミア、ハンガリーをも併合することに成功。しかし、その全治世を通じて、ネーデルラントの叛乱、スイスの独立運動、ボヘミア、ハンガリーの抵抗、フランスの侵入などによって戦争に明け暮れた。1493年ミラノのスフォルツァ家のビアンカ・マリーアと再婚してイタリア進出を図ったが、そのために仏王シャルル8世の引き起こした「イタリア戦争」に巻き込まれることとなった。この戦費調達を帝国等族に求めるため、1495年ヴォルムスの帝国議会を召集。マインツ選帝候ヘネベルクらはこの皇帝の窮状を利用して、彼らに有利な帝国改革案の実現を要求した。永久ラント平和令(フリーデ)発布、帝国最高法院、帝国統治院の設置、帝国議会の整備などの改革が行われ、帝国は中央集権的ではない、連邦制的な道を歩むことになった。文芸・美術の保護者としても知られ、「最後の騎士」と呼ばれた。

1967.9.2 ベルギー発行


【ヴォルムス帝国議会500年】

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1495年に帝国都市ヴォルムスで開催された帝国議会。研究上「改革帝国議会」などと呼ばれることもあり、重要な改革案が決定された。重要な改革は次の4つ。まず永久平和令が発布され、これによって私闘(フェーデ)が禁止され、紛争解決の手段として、正規の訴訟手続きのみが認められた。長い間「良き旧き権利」として帝国等族をはじめ一般の貴族や自治都市に認められてきたフェーデ権、すなわち「暴力によって紛争を解決する方法」が完全に破棄されることが決まった。次に帝国最高法院が設置された。永久平和令により、紛争解決の手段を裁判に限定したため、帝国における最高裁判所を設置する必要があった。16名の陪席判決員のうち、皇帝が推薦できたのは2名のみで、残りは選帝侯やクライスが推薦した。(これに対して皇帝マクシミリアン1世は直ちに帝国宮内法院を設置、帝国に2つの最高裁判所が併存する事態に至った。)3つめは一般帝国税(ゲマイナー・プフェニヒ)の徴収。これは帝国最高法院の維持費を賄うために、帝国のすべての住民から税を徴収しようとするもの。4つめは帝国議会の整備で、審議の方法が定められるとともに、皇帝と直接的な封建関係にある者(帝国直属者)すべてに出席権が確認された。議会の年1回の開催も決定されたが、これは実現しなかった。

1995.1.12 ドイツ連邦共和国発行


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マルガレーテ  1480-1530

マクシミリアン1世とブルゴーニュ公女マリーの子。2歳で母が急逝すると、ブルゴーニュに介入したフランスのルイ11世によって王太子シャルル(後のシャルル8世)との婚約を名目にフランスに連行され、王の姉アンヌ・ド・ボージューに育てられた。しかし、1490年に父マクシミリアンがブルターニュ公女アンヌとの再婚を決めると、挟撃されることを恐れたシャルル8世はブルターニュを攻撃して強引にアンヌと結婚、離縁された彼女はブルゴーニュに帰国。1495年、ハプスブルク家とスペイン王家の間に二重結婚の契約が成立し、彼女はスペイン王子ファンと結婚するが、夫はまもなく病死。1501年にサヴォイア公フィリベルトと再婚するもふたたび夫が早世。その後は父からネーデルラントの総督を任せられ、公国を繁栄に導いて名君として敬愛された。居を定めたメッヘレンは、彼女の統治のもとで芸術の薫り豊かな都市に変貌した。また、ブルゴーニュで生まれた兄フィリップの遺児4人の養育も担当。1519年の皇帝選挙では自ら参謀となって甥カールの当選のために多大な尽力をした。1529年には幼なじみのフランス王母ルイーズ・ド・サヴォイとひそかに図って「貴婦人の和」を締結、フランス王フランソワ1世との抗争で動きがとれなくなっていたカール5世の窮地を救った。

1980.4.28 ベルギー発行


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2000.2.21 ベルギー発行 1979.11.22 スペイン発行

カール5世  1500-1558

神聖ローマ皇帝(在位1519-56)。外祖父フェルナンド2世よりスペイン王位を継承(カルロス1世 1516〜1556)。祖父マクシミリアン1世の死後神聖ローマ皇帝となり、アメリカまでの広大なハプスブルク家領を支配した。彼の強大化を怖れるフランスのフランソワ1世とイタリア支配をめぐるイタリア戦争が激化し、カンブレー条約でフランスの締め出しに成功したが、1527年のローマ略奪はイタリアのルネサンスを終わらせた。ドイツ領内では宗教改革運動に悩まされ、1521年のヴォルムス帝国議会ではルター派を迫害するが、オスマン=トルコの侵入などのために新教派諸侯の協力を得る必要が生じ、やむなく1526年ルター派の布教を許可するも、1529年再び禁止して新教派諸侯の反抗を招く。新教派諸侯の結んだシュマルカルデン同盟との戦争(1546-47年)には勝つが、数年後に改革派の反攻で皇帝軍が敗れ、1555年のアウグスブルクの和議でルター派を公認せざるを得なくなる。56年弟フェルディナント1世にドイツ帝位を、子フェリペ2世にスペイン王位を譲って引退した。

生まれたのはヘント(ベルギー)。母親のファナが「狂女」と呼ばれる状態だったため、叔母のネーデルラント総督マルガレーテに育てられ、17歳でスペインへ。1922年から7、8年スペインに住んで、すっかりスペイン人化。というわけで、ドイツ人の間では、「カール5世はドイツ語が話せなかった」と認識されてるらしいです。ちょっと信じられない話ですが・・・
ちなみにベルギー発行の切手の図案はティツィアーノ画による『カール5世の騎馬像』(プラド美術館蔵)より。背景の世界地図はオルテリウスの1570年版「世界の舞台」の世界図。

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フェリペ2世  1527-1598

スペイン王(在位1556-98)。カール5世とポルトガル王女イサベルの子。カトリック以外の宗教を禁止して対抗宗教改革の先頭に立つ。本国以外にイタリア・ネーデルラント・新大陸など広大な領土を領有し、スペインは未曾有の繁栄を迎える。1557年サン・カンタンの戦いでフランス軍を破り、1559年にはカトー=カンブレジの和約でイタリア戦争を終結。1571年レパントの海戦でオスマン=トルコを撃破し、1580年には王位継承権を得てポルトガルを併合した。しかし、ネーデルラントの独立戦争の制圧に失敗し、1588年には無敵艦隊がイギリスに全滅して海上権を失い、国力は衰退に向かった。エスコリアル宮殿の建設をはじめ、絵画など美術の保護に努め、スペイン文化の黄金時代を築いた。

息子の婚約者を取り上げて再婚し、その息子をまた死に追いやる、というシラーの戯曲「ドン・カルロス」のおかげか、えらい評判の悪い王様であります。とはいえ、この話はかなり中傷の入った噂(確か「黒い伝説」とかいったはず)がもとになっているものなんですけどね(実際のドン・カルロスは近親婚の悪影響か、かなり病的性格の持ち主だったらしいです)。
実際には、あまりボスには持ちたくないタイプ(笑)のワーカホリックな王様だったようです。
個人的には、これ以前にフェリペという王様はいないのになんで“2世”なんだろうとしばらく疑問に思っていましたが、祖父のフィリップ美公を“1世”と数えるからなのですね。

左1961.11.13 右1979.11.22 スペイン発行


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フェリペ3世  1578-1621


スペイン国王(在位1598-1621)。フェリペ2世の子。政治に関心が薄く、寵臣レルマの子ウセダ公の独裁政治を放任した。1609年にネーデルラント北部7州と12年間の休戦協定を結び、実質的にその独立を承認。バレンシアの50万人のモリスコ(キリスト教に改宗したムーア人)を国外に追放したため農業は衰退、三十年戦争に参加するなどして国庫の負担を増し、国家の没落を早めた。支倉常長が伊達政宗の書簡を渡したのはこの王。

1979.11.22 スペイン発行


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ヘンリー8世とメアリーローズ

ヘンリー8世  1491-1547

イギリス王(在位1509-11547)。ヘンリー7世の次子。スペイン王女である王妃カタリーナと離婚し、アン・ブリンと結婚しようとして教皇と対立、1534年首長令を制定してローマ教会から分離し、イギリス国教会を樹立した。36年と39年に修道院解散法を発し、その財産を没収。41年アイルランド国王と称し、44年スコットランドを攻め、またカール5世と結んでフランスに侵入したが、この対外政策は晩年の財政を乱れさせた。

最初の王妃カタリーナは、実は兄アーサーの未亡人。本来は教会法か何かでこういう結婚は禁止されているのだそうで、生まれた子どものうち娘一人しか育たなかったのが神の罰だと思われた、という事情もあったのだそうです。だからといってそのあと4回も結婚してるようじゃ、同情の余地無いですけど・・・

1982.6.16 イギリス発行

【海の遺産】


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エリザベス1世  1533-1603

イギリスの女王(在位1558-1603)ヘンリー8世と第2妃アン・ブリンとの間に生まれる。首長令の励行、統一令の発布によりイギリス国教会を確立するとともに、枢密院・星室庁の権限拡大、特設高等法院の設立などでカトリックを抑圧した。重商主義を採用し、独占権付与によって工業を育成、東インド会社を設立して喜望峰以東の独占権を得た。オランダの独立を援助し、対スペイン強硬策をとって1588年には無敵艦隊を破り、以後の海上発展の道を開いた。また、その治世中、シェークスピアをはじめ多くの天才が活躍し、イギリス文学史上、黄金時代を現出した。しかし、晩年には清教徒の不満、産業資本家の台頭、議会の成長などがあって、その体制は揺らいだ。「私はイングランドと結婚している」と生涯独身を通したため、王位はスコットランド王ジェームズ6世が継いだ。

1968.8.12 イギリス発行


【ビレ=コトレ勅令450年】

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フランソワ1世と「フランス語を公用の言葉とする」

【フランソワ1世】 1494〜1547  フランス国王(1515-47)。スペイン王カルロス1世とドイツ皇帝位を争って敗れ、イタリア遠征でも1525年のパヴィアの戦いに敗れ、北イタリアにおける一切の地歩と権益を失う。国内では行政機構や徴税制度の整備、高等法院の再組織など、貴族、教会の権力を削減して王権の強化に努め、絶対王政に向かって一歩を進めた。文芸を保護奨励し、フランス=ルネサンスの父と呼ばれた。

「ビレ=コトレ勅令」:1539年、公文書用語をフランス語に統一することを命じた勅令。

1989.10.28 フランス発行


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アンリ4世とナントの勅令

【アンリ4世】 1553〜1610  フランス国王(1589-1610)。ナヴァール王(1562-1610)。ブルボン朝の創始者。新教徒の指導者としてユグノー戦争を戦った。1572年シャルル9世の妹マルグリットと結婚。この時カトリック教徒が2000とも3000ともいわれる新教徒を殺害するサン・バルテルミーの虐殺が起きた。アンリ3世が暗殺された後に即位したが、内乱がやまず、1593年カトリックに改宗。新興ブルジョワジーの支持を得て国内の平定に努め、1598年ナントの勅令を発してユグノー戦争を終わらせた。絶対王政の確立につとめ、カナダに植民してケベックを建設。狂信的カトリック信者に暗殺された。

「ナントの勅令」:新教徒(ユグノー)に、個人としての信仰と礼拝の一定の自由を認めた勅令。

1969.11.8 フランス発行

【歴史シリーズ第4集】


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オラニエ公ウィレム  1533-1584

オランダ独立戦争の指導者で初代統領(在職1579-84)。ドイツのナッサウ伯家に生まれ、オラニエ公領を継承。神聖ローマ皇帝カール5世、次いでその子フェリペ2世に仕え、1555年ホラント・ゼーラント・ユトレヒト3州の総督に任ぜられた。フェリペ2世のネーデルラントに対する圧政を批判して、市民階級と結んで独立運動を起こし、ゼー・ホイセン(海の乞食団)を指導して果敢に反抗した。1579年の北部7州によるユトレヒト同盟の結成後、初代の統領に就任。1581年に独立宣言を発してネーデルラント連邦共和国を成立させたが、のち暗殺された。熱心なプロテスタントで、「沈黙公」の名がある。

1984.7.10 オランダ発行


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ヤーコプ・フッガー Jakob Fugger  1459-1525

南ドイツ・アウグスブルクの富豪。1367年に織物工ハンス・フッガーがアウグスブルクに移住、近郊で製造される織物をヴェネツィアで売りさばき、資産を蓄えた。ヤーコプ1世の代にはヴェネツィアとの取引をいっそう拡大して、東方産の高価な香辛料や絹などをさかんに仕入れて財閥の基礎を不動のものとし、彼の末子ヤーコプ2世(富裕者)のもとでフッガー家は最盛期を迎えた。彼はティロルの銀鉱、ハンガリーの銅鉱の採掘権を得て鉱山業、金属業を行い、また蓄積した富を利用して金融業を開始、ヨーロッパ最大の富豪となった。1490年のティロル接収を助けてマクシミリアン1世の知遇を得、皇帝、教皇の銀行家として、教皇選挙や1519年のカール5世の皇帝選出に資金面で貢献し、以後も有力な資金援助者となった。ルターの宗教改革を誘発した、1517年のドイツにおける贖宥状販売にも、これを請け負ったマインツ大司教にたいする債権者であったという点で関与している。 1519年にはアウグスブルクに共同住宅フッゲライを建て、困窮した市民を住まわせて社会事業の先駆ともなった(家賃据え置きのまま現在に至っている)。

1959.3.6 ドイツ連邦共和国発行

【ヤーコプ2世・フッガー生誕500年】


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プレッシア会戦のバヤール

バヤール Pierre Terrail, Seigneur de Bayard  1473?-1525

フランスの武将。勇敢、誠実、寛仁で騎士道の典型と呼ばれた。シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世の3代にわたる国王に仕えて武勲に輝き、フランソワ1世の騎士叙任式には懇願されてその介添え役を務めた。合理的な戦術家としても知られ、なかでも1521年皇帝カール5世の大軍に包囲されたメジュールをわずかの手兵をもって守り抜いた合戦が有名。イタリアで戦死。

1969.11.8 フランス発行

【歴史シリーズ第4集】


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銅版画

ベトレン・ガーボル Bethlen Gábor  1580-1629

小資産の上流貴族の出。トランシルヴァニアの反ハプスブルク政策の熱狂的支持者。ボチカイ・イシュトヴァーン、バートリ・ガーボル公の顧問、1613年には自らトランシルヴァニア公となる。国の経済再建を成し遂げ、新教徒文化政策を追求した。ジュラフェヘールヴァールの宮廷を文化の中心地にしようとし、ここにトランシルヴァニア最初の大学を創設した。三十年戦争を利用して、トランシルヴァニアを基に独立ハンガリー君主国の回復を図ったが、同盟国の弱体、ハンガリー貴族の反対、トランシルヴァニア公国の限られた財源のため、彼の計画は失敗に帰した。1620年にハンガリー王に選出されたが、トルコが同意しなかったために戴冠を拒まざるをえなかった。しかし、その卓越せる軍事的・外交的才能によって反ハプスブルク陣営の東翼を組織した人物として、ヨーロッパ政治に重要な役割を果たした。なお、二度目の妻はブランデンブルク選帝侯の娘カタリーナで、彼女はグスタフ・アドルフの義姉妹である。

1980.3.19 ハンガリー発行


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ジクムント3世ヴァーザ Zygmunt III Waza  1566-1632

ポーランド王(在位1587-1632)、スウェーデン王(在位1592-1599)。スウェーデン王ヨハン3世の子。母方を通じてヤギェウォ家の血を引くことから大法官ザモイスキらに支持され国王に選出された。しかし即位後もスウェーデン王位に固執し、親ハプスブルクでスペイン型の絶対王政を理想として大法官と対立した。またイエズス会士を重用し、強引なカトリック化政策をとってプロテスタントや正教徒のシュラフタ(貴族)の反発を招いた。1606年には反王党派貴族との対立から内戦状態となり、これは反王党派の敗北に終わったが、改革派シュラフタの力がついえ、国王も王権強化策の転換を迫られることになったため、マグナート(大貴族)層が勢力を伸ばす契機となった。1511年頃には国王宮廷をクラクフからワルシャワに移して事実上の遷都を行った。また東方への進出を意図し、ロシアでリューリク朝が断絶すると、自らツァーリとなることを主張した。父の死後スウェーデン王位を継承したが、ルター派のスウェーデンではカトリックの国王に対する反発は強く、1599年に議会は廃位を決議。翌年には両国間の戦争に発展し、1629年に屈辱的な講和を結ぶ結果となった。

1974.12.2 ポーランド発行


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ヤン2世カジミエシ Jan II Kazimierz  1609-1672

ポーランド王(在位1648-68)。ジクムント3世の子。異母兄ヴワディスワフ4世の死後国王に選出される。ウクライナ・コサックの蜂起が続き、1654年にはロシア軍が侵入、翌年にはそれに加えてスウェーデン王カール10世が侵攻を始めた(シェンキェヴィチの小説の題名から「大洪水」と呼ばれる)。国土の大半が敵の手に落ちたためにシロンスクに亡命、1656年1月に帰国して反撃を開始。敵陣営の切り崩しを図るなどして、1660年にスウェーデンをリヴォニア北部を除く占領地から撤退させた。ウクライナ、ロシアとの講和は1667年にようやく結ばれたが、東方の領土の一部を失った。この「大洪水」でポーランドは人口の3割以上を失い、国土の荒廃と国際的地位の低下という負の遺産があとに残った。内政面でも混迷し、議会への多数決制の導入、シュラフタへの課税など一連の改革を提案したが、ことごとく反対派マグナートによって潰された。その中心となったルボミルスキに追放を宣告したことから内戦となり、その後和解が成立したものの、政治的にゆきづまって退位した。

1999年 ポーランド発行


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ピューリタン革命

スコットランド鎮圧の軍費入手のために国王チャールズ1世が招集した議会は、大諫奏を提出するなど国王と対立、1642年国王の武力干渉から内乱が勃発した。初めはイングランド北部・西部に拠点を置く王党軍が、南東部を占めジェントリーや都市市民に基礎を置く議会軍より優勢であったが、ヨーマンを主体としたクロムウェルの鉄騎隊が出現して、1646年ネーズビーの戦いで議会軍が勝ち、1648年国王は逮捕された。クロムウェルの独立派は王と妥協をはかる長老派議員を追放し、1649年1月王を処刑して共和制を宣言した。

1992.6.16 イギリス発行


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ウィリアム3世&メアリー2世

【ウィリアム3世】 1650〜1702  イギリス国王(在位1689-1702)。オランダ共和国総督ウィレム2世とイギリス王チャールズ1世の娘メアリーの間に生まれる。父の死の1週間後に生まれ、幼少時代は共和派の首領デ・ウィットの監視下におかれた。1672年フランスのルイ14世のオランダ侵入が始まると、国民の輿望を担って総督に就任(1672-1702)、陸・海軍を指揮してフランス軍に抵抗、1679年ナイメーヘンの和約を結んで領土を回復するとともに、ルイ14世の侵略に対抗する指導者としてヨーロッパに存在を認められるようになった。1677年、ヨーク公(後のジェームズ3世)の娘メアリーと結婚。1688年、名誉革命の際にイギリス議会に招聘されてメアリー(2世)とともに即位。権利の宣言を承認して、89年権利の章典として発布し、議会政治の基礎を築いた。

【メアリー2世】 1662〜1694  イギリス女王(在位1689-1694)。ジェームズ2世の長女。プロテスタントとして教育され、オラニエ公ウィレムと結婚。よく夫を助けてオランダ国民の敬愛を集めた。名誉革命で夫とともに帰国し、ともに即位した。謙虚で公平な人柄が国民に愛され、オランダ文化の移入にも貢献した。

1988.6.14 オランダ発行


《目次》       ■ その2「宗教改革」 へ       ■ その3「大航海時代」 へ



参考文献:
 『ブリタニカ国際大百科事典』
 『ヨーロッパ近世の開花 世界の歴史17』(長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之・著/中央公論社)
 『ドイツ史1 先史〜1648年』(成瀬治・山田欣吾・木村靖二・編/山川出版社)
 『宗教改革』(オリヴィエ・クリスタン/佐伯晴郎・監修/創元社「知の再発見」双書)
 『ハプスブルク家』(江村洋/講談社現代新書)
 『ハプスブルク家の女たち』(江村洋/講談社現代新書)
 『中世最後の騎士 皇帝マクシミリアン1世伝』(江村洋/中央公論社)
 『オランダ史』(モーリス・ブロール/西村六郎・訳/白水社文庫クセジュ)
 『神聖ローマ帝国 1495-1806』(ピーター・H・ウィルスン/山本文彦・訳/岩波書店)
 『ハンガリー史1・2』(パムレーニ・エルヴィン著・田代文雄/鹿島正裕 共訳/恒文社)
 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 新版世界各国史20』(伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編/山川出版社)
 『切手が伝える地図の世界史 −探検家と地図を作った人々−』(西海隆夫/彩流社)