【国立故宮博物院建院七十周年】

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宋  黄庭堅  七言詩

1995.10.9 中華民國発行

花氣薫人欲破禪 花の香りが私を撲ち、禅の静けさはうち破られそうだけれど
心情其實過中年 心はもう本当のところ、すっかり老いぼれてしまったらしく
春來詩思何所似 春の喜びを詠おうにも、詩ってどんなモノだったのかすら、ピンとこない
八節灘頭上水船 激流を遡る船みたいに、言葉が全て流されてしまって前に進めないんだよ
花見に誘ってくれた友達へ、断りがてら戯れに贈った詩であるようです。花に心誘われていながらも、春の遊びに出ていくことにはどこか躊躇いがある、繊細なお年頃のだるい親父心を巧みに表現し尽くした作品と言えましょうか。「八節灘」とは河南省洛陽市の辺りの地名で、険しい灘の代名詞としても用いられる語です。また、「上水船」は流れを遡る船のことですが、文学的インスピレーションがへたれた状態も言うようなので、ここではその双方を踏まえて、詩人のナイーブな言い訳っぽく解釈してみました。

訳と解説は卯月蔦。様より♪ 台湾故宮博物院のホームページ

【黄庭堅】 1045~1105  洪州分寧の人。治平4(1067)年進士に及第。国子監教授、江西、山東の地方官を務めたのち、秘書省に入って『神宗実録』の編纂にあたったが、新法党に中傷され、以後地方を転々として最後は宜州で没した。蘇軾の門下として秦観らと「蘇門四学士」、蘇軾と並んで「蘇黄」と称せられる。書家としても「宋代四大家」の一人に数えられる。

中国の詩人

1967.6.12 中華民國発行

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【李白】 701~762  山東の人。字は太白。若くして詩書に通じ、剣術を好んだ。25歳頃より諸国を放浪。42歳で玄宗に仕えるが、側近の高力士に憎まれて宮廷を追われた。その後はまた各地を放浪し、安史の乱に加わって一時流罪にされたこともある。明るく、力強く、幻想的でしかも浪漫的な詩を作った。詩風では対照的な杜甫と併称されて「李杜」と呼ばれる。

作品から1つ紹介。

「靜夜思」

牀前看月光 深夜 静寂 月明かり
疑是地上霜 天の氷か 白光 床に溢れ
擧頭望山月 見上げれば 沈み行く月 山にかかり
低頭思故郷 うつむけば 浮かぶふるさと 遠い夢
再び訳は卯月蔦。様♪
あんまり人に頼んでばかりなのも管理人として気が引けるので、『唐詩選』を調べてみたらば、
「楽府題の一つ。ただし楽府題は、漢から南北朝に至る間の民謡にもとづいたものが多いのだが、「靜夜思」は南北朝以前にはなかった題である。このように唐代になってからできた楽府を、新楽府と名づける」
とありました。(・・・何のことやら;汗)

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【白居易】 772~846  中唐の詩人。太原の人。貞元16(800)年進士に及第、翰林学士、左拾遺などを歴任。元和元(815)年江州司馬に左遷され、その後地方の刺史や中央の官を経て会昌2(842)年に辞任。現存する詩は三千余首で唐代詩人中最も多く、若い頃の作には社会の矛盾をつく風諭詩が、晩年には閑寂な境地をうたった詩が多い。全集『白氏文集』は日本で平安時代以降広く愛読され、大きな影響を与えた。

風諭詩の1作より末尾を紹介。(『白居易 上・下』高木正一・注/中國詩人選集/岩波書店  ただし『全国アホバカ分布考』松本修/太田出版 より孫引き;笑)

「杏を梁と為す」

君不見馬家宅尚猶存 諸君見給え、馬家のおやしき今なおのこり、
宅門題作奉誠園 門にしるした表札は、ほれ奉誠園
君不見魏家宅屬他人 諸君見給え、魏家のおやしき一たびは、ひと手にわたっていたものの
詔贖賜還五代孫 勅命あって買いもどし、五代の子孫に下された
儉存奢失今在目 つつましければ永続き、はでにやったら亡ぶもの、たとえはちゃんと目の前に
安用高牆圍大屋 高いかきねで大屋根をかこむことなどいらぬこと

古代文学者 〈 第2次 〉

1994.6.25 中華人民共和国発行

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【陶淵明】 365~427  東晋末期~南朝宋初期の詩人。下級貴族の出身で、生活のため29歳頃から数回官途に就いたが、肌に合わず、義煕1(405)年彭沢県令をわずか80日で辞し、『帰去来の辞』にその気持ちを託して故郷に帰り、田園で農耕生活を送った。あまり技巧を用いない平坦な詩風は、当時は軽視されたが、唐以後は六朝最大の詩人として名が高くなった。『五柳先生伝』『桃花源記』など散文にもすぐれている。

「飲酒 其五」

結廬在人境 人里に廬を構えているが、
而無車馬喧 役人どもの車馬の音に煩わされることはない
問君何能爾 「どうしてそんなことがあり得るのだ」とおたずねか
心遠地自偏 なあに、心が世俗から遠く離れているため、ここも自然と僻遠の地に変わってしまうのだ
采菊東籬下 東側の垣根のもとに咲いている菊の花を手折りつつ
悠然見南山 ゆったりとした気持ちで、ふと頭をもたげると、南方はるかに廬山のゆったりした姿が目に入る
山氣日夕佳 山のたたずまいは夕方が特別すばらしく
飛鳥相與還 鳥たちが連れ立って山のねぐらに帰って行く
此中有眞意 この自然の中にこそ、人間のありうべき真の姿があるように思われる
欲辯已忘言 しかし、それを説明しようとしたとたん、言葉などもう忘れてしまった

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【曹植】 192~232  魏王曹操の子。字は子建。幼少から文才を示して父の寵愛を受け、兄の曹丕をさしおいて後継者にとも目された。そのため曹丕が即位すると、腹心たちは殺され、死去するまでの十一年間に三度も国替えとなってきびしい監視の下におかれ、いっさい国政に関与することを許されなかった。賦・頌・銘・表など、あらゆるジャンルにすぐれ、特に詩は力強い風格、流れる抒情によって建安文学を代表する。『曹子建集』がある。

「雑詩 其五」

僕天早厳駕 御者は早朝から車の支度を調え
吾将遠行遊 私は今、遠い旅に出ようとしている
遠遊欲何之 遠い旅に出てどこまで行こうというのか
呉国為我仇 それは呉の国、我々の仇敵の国だ
将騁万里塗 さあ万里の道に馬を馳せよう
東路安足由 東の国に帰る道など、通る値うちもない
江介多悲風 長江の水辺には悲しい風が吹き渡り
淮泗馳急流 淮水・泗水は流れが激しい
願欲一輕濟 そこを一気に渡りたいと思っても
惜哉無方舟 無念にも並べて渡る舟がない
閑居非吾志 気楽に暮らそうなどとは私は思わない
甘心赴国憂 困難に甘んじて、国の危急に馳せ参じよう

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【司馬遷】 前145?~前87?  前漢の歴史家。夏陽の人。生没年については諸説の間にかなりの幅がある。20歳から父司馬談の命を受けて諸地方を旅行し、古い記録などを集めた。のち郎中となって名をあげ、父の跡を継いで太史令となった。天漢2(前99)年、匈奴の捕虜となった李陵を弁護して武帝の怒りにふれ下獄、翌年宮刑に処せられた。2年後大赦によって出獄、中書令となり、父の遺命で早くから着手していた修史の事業に没頭し、不朽の名作『史記』を著した。

図案の文章は友人の益州刺史任安から送られた手紙への返事。『文選』に採録。

「報任少卿書」 部分

亦欲 究天人之際 通古今之変 成一家之言

これ(黄帝の昔から現代にいたるまでを十二紀、七十列伝などすべて百三十篇まとめたこと)によって天と人間の関係を究明し、古今の変化を理解して、一家言を成そうとしたのであります。

草創未就 會遭此禍 惜其不成 已就極刑 而無慍色

しかし、草稿もまだ完成していない矢先に、この李陵の災いに出会うこととなり、この書のまだ完成していないことが残念でなりませんでした。それゆえ、身は極刑を被りましたが、恨みの気持ちをこらえることができたのであります。


【世界4大文化人】
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1953.12.30 中華人民共和国発行
【屈原】 前343?~前277?  戦国時代楚の人。本名は平で原は字。楚の貴族の家柄で、初め懐王に深く信任され、内政外交に活躍した。しかし懐王のあと即位した頃襄王にその親斉反秦の方針が退けられ、江南に流された。その後各地を放浪した末、秦によって滅亡に瀕する祖国を見るに忍びず、汨羅の川に身を投じた。楚の民謡を基調とする新しい詩のジャンル『楚辞』の創造者かつ完成者で、代表作「離騒」は、彼の悲運の生涯をもとに、その思想と感情を奔放な神話的幻想の世界に溶け込ませた長編の詩である。

「離騒」 第九小段

吾令羲和弭節兮 私は太陽の御者羲和に車の速度をとめて
望崦嵫而勿迫 日の入る崦嵫の山を遠くのぞみつつ近づかないようにさせ、日没をさまたげた
路漫漫其脩遠兮 道ははるばるとして長く遠いが
吾将上下而求索 私は上ったり下ったりして神女をさがし求めようとする
世界4大文化人というからにはまだほかに三人いるわけで、のこる御三方はラブレー、マルティー、コペルニクスだそうです。ガルガンチュワ物語のラブレーは知ってるけど、マルティーなんて詩人、知らないんですけど。どういう人選なんですかね・・・?

古典詩 《唐詩》

1982.6.23 中華民國発行

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孟浩然 「春暁」

春眠不覺曉 春の眠りの心地よさに、夜があけたともおぼえなかったが、
處處聞啼鳥 もうあちこちに、鳥の啼く声が聞こえている
夜來風雨聲 そういえばゆうべ、風雨の音がしていたが、
花落知多少 さて花はどれほど散ったかしら
【孟浩然】 689~740  襄陽の人。若い頃は科挙に及第できず、諸国を放浪した末、郷里の鹿門山に隠棲した。40歳の時に都に出て、王維らと親交を結んだが、官職は得られなかった。その後張九齢が荊州長吏に流された時に招かれて部下となったが、まもなく辞任、江南を放浪した末、郷里の襄陽に帰った。風骨のある飄逸な性格のもちぬしで、陶淵明や王維の詩とあい通じる山水を詠じた名作を残している。その詩にもまた五言の短編が多い。

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賈島 「尋隠者不遇」

松下問童子 松の下で童子に会い、隠者はどこにおられるかとたずねたら、
言師採藥去 童子は答えた。 先生は薬草をとりに出かけられました
只在此山中 この山の中におられるにはちがいありませんが、
雲深不知處 雲が深いことですから、どこにおいでになるやら、場所はわかりません
【賈島】 779?~843  范陽の人。何度も科挙に落第した末、僧となって無本と号し、長安へ出て青竜寺に住んだ。当時、白居易らの平俗な詩風が流行していたのに反対し、苦吟して句を練るべきことをとなえて有名になり、韓愈に認められて還俗、進士に及第したが、微行していた宣宗に無礼をはたらいたので、長江主簿として都を追われ、のち普州司倉参軍に遷った。死んだときには一文のたくわえもなく、病んだ驢馬と古い琴だけがあったという。

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劉禹錫 「秋風引」

何處秋風至 秋風は、どこから来るのであろうか
蕭蕭送雁群 さびしい音をたてながら、雁の群れを送ってくる
朝來入庭樹 今朝がた、その秋風が庭の木に吹き入ったのを、
孤客最先聞 ただでさえ心をいたませている孤独な旅人、この私は誰よりもさきに聞きつけた
【劉禹錫】 772~842  中山の人。柳宗元と同じく王叔文の党に属し、将来の宰相とうたわれたが、叔文の失脚とともに朗州司馬に流された。元和十年、都へ召され、罪を軽減されるはずだったが、そのときに作った詩が権官たちの怒りにふれ、播州に流されるところを、とりなす人があって連州に移された。その後、都へ帰って主客朗中などを歴任、検校礼部尚書に至った。

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祖詠 「終南望餘雪」

終南望餘雪 終南の北峰は高くそそり立ち、
積雪浮雲端 峰に積む雪は雲のはしに浮かんでいる
林表明霽色 林の上空には晴れた空の色が明るく映え
城中増暮寒 長安の市街では、夕べとともに寒気が加わってきた。
【祖詠】  洛陽の人。王維と親交があった。開元12(734)年、進士に及第したが、官職は得られず、汝水のほとりの別荘に引きこもって、農耕生活を送った。

終南は長安の南方にある名山。この山の残雪を長安の町から望むという題で科挙に出題されたもの。答案は五言六韻の排律に作らねばならないのだが、作者はこの4句を作っただけで提出してしまった。人から理由をたずねられて、作者は「これで意は尽くした」と答えたという。この言い分が通ったのか、作者は試験に及第した。

古典詩 《古詩》

1992.8.8 中華民國発行

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蘇武の古詩-兄弟の情

骨肉縁枝葉 兄弟は同じ根から出た枝や葉と同じく
結交亦相因 友達もまたお互い頼りあうもの
四海皆兄弟 古人も四海の内はみな兄弟だといったのであるから
誰為行路人 誰でも路傍の人と見なすべきではない
況我連枝樹 ましてわたしと君とは枝をつらねた樹の如き
與子同一身 肉親の間柄なのだからなおさらのことである
以下略

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蘇武の古詩-夫婦の情

結髪為夫妻 としごろとなり、そなたと夫婦となってから
恩愛両不疑 互いに愛し愛され、疑う心もなく、今日までくらしてきたが
歡娯在今夕 喜び悲しみも今宵限りとなった
燕婉及良時 せめてまたなきこの一夜をあだにせず、むつみおうて過ごそう
以下略

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李陵の古詩-友人の情

「蘇武に与ふる詩」 三首目

擕手上河梁 君と手をたずさえて橋の上に立った
遊子暮何之 旅姿の君よ、この日暮れどこへ行こうとするのか
徘徊蹊路側 あいともに小道のほとりを行きつ戻りつ
恨恨不能辭 名残り惜しさにいとまを告げる言葉も出ない
行人難久留 さりとて旅立つ君ゆえ、長くとどまることもかなわぬ
各言長相思 お互いにいつまでも忘れまいぞといいかわすのみ
安知非日月 人生の離合は日月の循環と同じではなかろうか
弦望自有時 月は満ちたり欠けたりし、ときには日と月があい望むこともあるように、
われらもまたあい会うときがないとは限らぬ
努力崇明徳 どうか明徳を高めていただきたい
皓首以為期 白髪になっても必ず再会することを約しましょう
中島敦の小説『李陵』でも有名な李陵と蘇武の話。別れの際の作品てことになってますが、上に挙げた蘇武の詩とともに、二人に仮託した後世の作とみて間違いないようです。

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古詩十九首より-故郷の情

胡馬依北風 北国胡の馬は北風に身をよせ
越鳥巣南枝 南国越の鳥は南向きの枝に巣をつくるとか
相去日已遠 お別れしてから日数も遠く過ぎました
衣帯日已緩 悲しさのあまり身もやせ細って衣の帯も日ましにゆるくなるばかりです
中央部分のみ抜粋

【古典詩 《楽府》】

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子夜春歌

1990.6.27 中華民國発行

春風動春心 春風に 春の心は揺れて
流目瞩山林 そぞろに見やる 苑の林
山林多奇采 苑の木々は 珍しき彩りに満ちて
陽鳥吐清音 春の鳥は 澄み切った声音で鳴く

訳は卯月蔦。様につくっていただきました。


【故宮名画 《書法芸術》】

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「寒食帖」 宋 蘇軾

縦34.2cm 横18cm

1995.4.9 中華民國発行

自我来黄州 已過三寒食 年年欲惜春 春去不容惜 今年又苦雨 兩月秋蕭瑟 臥聞海棠花 泥汚燕支雪 闇中偸負去 夜半真有力 何殊病少年 病起鬚已白

私が黄州にやってきて、すでに三回目の寒食の日を迎えた。惜しいことに今年も春は過ぎ去ろうとしている。今年も秋のような長雨に苦しみながら、床に横になって海棠の花が散り泥にまみれている様子を聞いている。暗闇で春を盗もうとしている奴は誰だ。夜だというのに力があるなぁ! 病みあがりの少年が白髪になるのと変わらないではないか。

春江欲入戸 雨勢來不已 小屋如漁舟 濛濛水雲裏 空庖煮寒菜 破灶燒濕葦 那知是寒食 但見烏銜紙 君門深九重 墳墓在萬里 也擬哭塗窮 死灰吹不起

春の岸辺から水が押し寄せようとしているが、雨は一向にやむ気配がない。小屋は漁船の如く、もうもうと立ちこめる水煙の中に漂うように見える。がらんとした台所で少しばかりの野菜を煮ようと、湿った葦をくべてかまどを起こす。今日が何の日かわからなかったが、カラスが冥紙を銜えているのを見て寒食節だと知った。朝廷に帰りたいが、あまりにも敷居が高く、祖先の墓がある故郷もまた万里の彼方。阮籍の作品を学びたいと思ったが、心は灰のように乾いていてただやるせない

「黄州寒食詩」は1082年に配流地の黄州で作られ、書はその後に書かれた。巻末尾の跋は黄庭堅による。

【蘇軾】 1036~1101  眉州眉山の人。嘉祐2(1057)年進士に及第。欧陽修に認められ、英宗の信任を得た。しかしまもなく王安石の新法に反対したため地方官に転出。その後も政争の渦に巻き込まれ、また直言をはばからぬ性格もあって、しばしば左遷され、生涯の多くを地方長官で過ごして終わった。父の洵、弟の轍とともに「三蘇」と称される。儒・道・仏に通じ詩文書画のあらゆる分野で天才的な業績を残した。

訳と解説は台湾故宮博物院のホームページより拝借。

参考文献:
 『中国詩入門 -古代から現代まで-』(藤堂明保・船津富彦・共著/大学書林)
 『陶淵明全集』(松枝茂夫・和田武司・訳注/岩波文庫)
 『唐詩選』(前野直彬・注解/岩波文庫)
 『古詩源・上 漢詩選4』(内田泉之助/集英社)
 『楚辞 漢詩選3』(藤野岩友/集英社)
 『文選 鑑賞 中国の古典12』(興膳宏・川合康三/角川書店)
 『文選 新釈漢文体系』(明治書院)

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