フランス・ノルマンディーの古都バイユーの大聖堂に伝えられた刺繍画(模様を織りだしたものではない)。幅50センチ強、長さ約70メートルの麻製で、ノルマン・コンクエストとそれに到る諸事件が58の情景に分かれて、8色の糸で刺繍、あるいは染色した布が縫いつけられている。イギリス兵潰走の場面で唐突に終わっているので、かつてはもっと長かったか、未完かとも思われる。上下の飾り欄には鳥獣草木、多くは怪獣神獣の模様が描かれている。コンクエストに到る経過だけでなく、当時の服装、武器、軍船、築城、戦闘の方法などを如実に伝える貴重な史料。現在はバイユー博物館所蔵。
かつてはギョーム(=ウィリアム)の妃マティルドが作らせたと思われていたため、「マティルド王妃のタペストリー」の名で呼ばれていましたが(58年のフランス発行の切手はこの名称)、現在ではギョームの異父弟でバイユー司教のオドの命でつくられたとみられています。
【ヘイスティングスの戦い】 1066年10月14日サセックス県ヘイスティングスでノルマンディー公ギョームの率いる北フランス騎士軍がイングランド王ハロルド2世のアングロ・サクソン軍を破った戦い。急造のイングランド軍は楯で囲んだ密集陣をつくり、斧を主武器によくノルマン騎兵に対抗したが、敗走を装ったノルマン軍を追撃するために密集隊形を崩したのが転機となり、混戦のうちにハロルドが戦死、丸一日の激戦のすえ、夕刻までにはギョームの勝利が確定した。この戦いでイングランド軍は主要指揮者の多くを失い、ノルマン人のイングランド征服が決定的となった。
【ウィリアム1世・征服王】 1027?〜1087 ノルマン朝初代イングランド国王(1066-87)。ノルマンディー公ロベール1世の庶子。1035年に父を継いで公となり、1047年には嫡出でない公をいただくのに不満な貴族の反乱を鎮圧して、公領の秩序を回復。フランドル伯の娘マティルドに求婚するも、「私生児と結婚するくらいなら修道院に入った方がまし」と突っぱねられ、彼女をさんざんに打擲したという有名なエピソードもあります(その後マティルドは結婚を了承。女心はよう分からん・・・)。
イングランド王エドワード証聖王には子どもが無く、またデーン王朝の断絶によって即位するまでに25年の亡命生活を母の実家ノルマンディで送ったために従兄弟の彼とは関係が深く、そのため彼は早くから王位継承権を約束されたと主張していた。1066年にエドワード証聖王が死んで王妃の弟ハロルドが即位すると、9月にイングランドに上陸、ヘイスティングスの戦いでハロルドを破って即位。1069年から足かけ3年におよんだアングロ・サクソン人の反乱を鎮圧すると、彼らの所領を没収して部下のノルマン騎士らに与え、封建制をイングランド全土に広げた。アングロ・サクソン国家の諸制度を導入して中央・地方行政を整備、カンタベリー大司教ランフランクとはかってローマ教皇権の干渉を排除。1085年から全国の検地を実施し、「ドゥームズデイ・ブック」を作成。また1086年夏には全国の土地所有者をソールズベリに集めて忠誠を誓わせたり、司教任命権を確立させるなどして、大陸諸国より王権の強い集権的封建制度の基礎を作った。フランス王フィリップ1世に対抗するためノルマンディーに赴く途中、落馬のため死去。
こうして英仏両国発行の切手を比べてみますと、断然フランスのが雰囲気出てていい! イギリス版は色使いがなんとも興醒め。大抵はセンスのよさに感心するのがロイヤルメールなのに・・・